今年も4月5日がやってくる。
16年前、独立を決心した日。
私は、一人でバーに入るという冒険をした。
自由が丘のバーだった。
俺は、このままでいたら、ただ消耗するだけの人生を過ごしてしまうのではないか。
絶えず、思っていた。
今までバーに一人で入ったことはなかった。
何か特別なことをしなければ、何も変わらないという投げやりな気持ちで、バーのドアを押した。
心臓は、バクバクだった。
「ボヘミアン」という名のバーだ。
一昨年、13年ぶりに行ってみたら、店が変わっていた。
だから、今はない。
入ってすぐ、ジャック・ダニエルのストレートを頼んだ。
恰好をつけたわけではない。
テネシー・ウィスキーを水割りで飲んだりロックで飲むのが嫌いだったからだ。
ショットグラスに95パーセント注がれたジャック・ダニエルを一気に飲んだ。
それで落ち着いた。
落ち着いたせいで、店に客が1人しかいないことに気づいた。
相手に目礼をした。
そして、音楽が流れていることにも気づいた。
キラー・クイーン。
言わずと知れたクイーンの曲だ。
次は「レディオ・ガガ」。
さらに、「フラッシュ」「ユア・マイ・ベストフレンド」。
それで、わかった。
店の名「ボヘミアン」は、「ボヘミアン・ラプソディ」から取ったのだということを。
要するに、クイーンの曲しか流さないバーだった。
3杯目のジャック・ダニエルを頼んだとき、40歳前後の誠実そうなバーテンダーに「ちょっとペースが早すぎませんか。楽しまないと損をしますよ」と諭された。
3杯目のウィスキーは、一気飲みをせずに、チビチビと飲んだ。
バーテンダーと目が合うと、優しい笑顔で頷いてくれた。
その笑顔を見て、さらに落ち着いた。
カウンターの椅子が木で出来ていることにも、そのときやっと気づいた。
壁にフレディ・マーキュリーのポスターが貼ってあったことにも初めて気づいた。
よほど緊張していたらしい。
そのとき、「ザ・ショー・マスト・ゴーオン」が流れた。
ショーは続けなければいけないんだ
多分 俺は何かを学んだだろう
俺は 前よりも穏やかだ
そして あの角を曲がり
「今」に向きを変えるだろう
夜が開けようとしている
でも 心は闇で 自由に飢えている
ショーは続けなければいけない
心は闇で 仮面は 剥がれ落ちるかもしれないが
俺は それでも微笑んでいるだろう
ショーを続けるために
その歌を聴いたとき、「俺は独立すべきだ」と思ったのだ。
前から思っていたことだが、臆病が故に、踏ん切りがつかなかった。
心は闇ではなかったが、自由には飢えていた。
どんなことでもいい。
誰かが背中を押してくれたら、俺は自由を選ぶだろう。
ずっと、そう思っていた。
そのきっかけが、そのときの「ザ・ショー・マスト・ゴーオン」だった。
体に電流が走る、という言い方があるが、そのときの私は、まさしくそれだった。
陳腐なほど、わかりやすい電流が、背中を走った。
曲が終わったとき、放心状態だった私に、バーテンダーが「最後の一杯は、僕が奢りましょうか」という信じられない提案をした。
ショーを続けるために?
「そうです」とバーテンダーが、私の前にグラスを置いた。
一気に飲んではいけないんですよね。
「それは、ご自由だと思います」
一気に飲んだ。
独立します、と初めて会ったバーテンダーに宣言した。
バーテンダーは、笑っただけだった。
独立したのは、「独立宣言」から半年後の10月だった。
その独立が良かったか悪かったかは、私にはわからない。
ただ、ヨメ、長男、長女を世間と同じレベルで食わせているという現実は、自分でも納得いけるものだと思っている。
俺にはまだ、伸びしろがある。
そんな「うぬぼれ」も持っている
だから、私のショーは、まだ続いている。