田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

そらちフットパスウォーク 15 雨竜町 前編

2013-10-21 17:06:03 | フットパスウォーク & トレッキング
空知支庁10市14町では空知総合振興局の勧め(?)で各市町それぞれ1コースずつのフットパスコースを設定し、それをまとめたルートガイドを発刊した。いずれもが各市町の見どころを満載したルートとなっている。私はこの24のコースを時間をかけて、ゆっくりと完歩したいと思い立った。 

田園の里散策ルート

     

 快晴の中のフットパスウォークは心地良いものだった。雨竜町郊外に広がる田んぼはすでに稲刈りを終え、ひっそりと静まり返っていたが、私はその中を心地良く歩き続けたのだった…。 

 今年最後になるであろう「そらちフットパスウォーク」を何時にしようかと思案していたのだが、10月12日(土)空が晴れ上がっていたのを見て、講座受講の予定もあったのだが急遽雨竜町に向かうことにした。

 朝、8時15分(出遅れた!)我が家を出で、雨竜町まで91㎞、1時間55分をかけて雨竜町のスタート地点となっている「道の駅 田園の里うりゅう」に着いた。
 「なぜ、それまでして?」という声が聞こえてきそうだが、趣味の世界は関心外の人にとっては理解の範疇を超えることが多いものだ。私にとっては知らないマチを巡り歩くことがことのほか楽しいことなのだ。ぜひともこの個人的プロジェクトを完成させたいと思っている。

          
          ※ スタート&ゴール地点の「道の駅 田園の里うりゅう」の建物です。

 我が家を出発が出遅れたためにスタートが10時30分となってしまった。
この日は雨竜町と新十津川町の二つの町のフットバスルートを歩こうと計画したのだが、両ルートとも12㎞内外と長いコースのためにやや焦りながらスタートした。
 「道の駅 田園の里うりゅう」をスタートし、国道275号線を跨ぐと直ぐに田園地帯に入る。田んぼは全て収穫作業を終えていて、稲を刈り終えた後の茎の下の部分が残されているだけだった。

          
          ※ 雨竜町の郊外ではこのように稲が刈り取られたあとの光景が広がっていました。

 ルートは雨竜町の名所の一つである「鶴田の沼」に導かれる。「鶴田の沼」は雨竜川が氾濫した後に出来た沼だということだ。そこは手つかずの自然を残し、雨竜町のビオトープとして活用しているそうだ。当初は沼を巡る散策路が設けられていたようだが、木道などが老朽化したために沼の傍まで近づけなかったのは残念である。
 沼に少しでも近づこうとしたとき、カメラを構える間もなく、カモの大軍が水草の影が音を立てて飛び立った。

          
          
          ※ 2枚の写真は雨竜川が残した沼をビオトープとした「鶴田の沼」です。

          

 空は快晴、風もなく秋日和(というには少し遅すぎ?)の中、心地良くウォークは続いた。稲刈りの終わった田んぼをよく見ると、茎の部分から新芽が顔を覗かせていた。植物の逞しさを見る思いである。
 農家の庭先の花壇は深秋を迎え、すでに大半の花が枯れ始めていて季節が深秋であることを思わせてくれた。
 また、空には絶えず鳥の声が聞こえた。空を仰いでみると、オオハクチョウやガンの群れが飛び交っていた。渡り鳥が南へ向かい始めたようだ。

          
          ※ 刈り取られた後の田んぼをよく見ると、ご覧のように新しい芽が芽吹いていました。

          
          ※ 農家の庭先の花壇はすでに宴の後の様相を呈していました。

          
          ※ バカチョンカメラがとらえたオオハクチョウのつがい(?)です。バカチョンではこれがせいいっぱい。          

 刈り取りを終えた田んぼと共に、やはり雨竜町でも休耕田が顔を見せたが、そこだけはまだ青々とした雑草(?)が生えていた光景が痛々しかった。
 コース途上に集落施設があった。その庭に二つの石碑が立っていた。よく見てみると右側は「水波能楽神」、左側は「池神宮」と読める。二つとも水に関係ありそうな表記でさすがに水田地帯の石碑である。

          
          ※ 方や休耕田は写真のように青々とした様子がかえって痛々しく映りました。

          
          ※ この写真では文字は判読できないでしょうが、現地でメモしてきました。

 ルートはもう一つのビオトープ「丹羽の沼」に導かれる。こちらはマップの説明では木製桟橋を渡って中に入ることができるようになっていたが、現地へ行ってみるとこちらも入域は禁止となっていた。
 「鶴田の沼」も「丹羽の沼」も当初は周辺を整備したものの、訪れる人も少ないことから、老朽化の後の整備はままならないといったところなのかもしれない。

          
          ※ もう一つのビオトープ「丹羽の沼」にかかる木道桟橋です。朽ち果てかかっていました。

          
          ※ 「鶴田の沼」よりはやや細い「丹羽の沼」の様子です。

 ルートはこの後、国道275号線の反対側を巡ることになる。
                                                    (続きは後編で)

北海道開拓の父 島義勇の漢詩を読む

2013-10-20 22:02:27 | 大学公開講座
文語体の古文書でも四苦八苦しているのに、漢詩となるともうお手上げである。ただただ講師の解説を伺うだけだった…。島義勇の壮大な計画と無念さを彼の漢詩から読み解く講座だった。 

 札幌学院大コミュニティカレッジの第二講が10月17日(木)午後開講された。今回は「『北海道紀行』に見る島義勇の決意」というテーマだった。
実は、島義勇が著した「北海道紀行」は北海道神宮が所蔵するもので、調べてみると「北海道紀行 島義勇漢詩集」として北海道神宮奉賛会から一冊の本として発刊されているのだが非売品ということで世間には広まっていない詩集らしい。そのため講師の合田一道氏も「文書の取り扱いには注意してほしい」と断りを入れて、私たち受講者に写しを渡された。

               
               ※ 教科書などに登場する島義勇の正装した姿です。

 
 島義勇の履歴、功績についてはかなり有名になっているので、ここでは重複を避けることにする。
 漢詩は明治2年に島が北海道開拓使の首席開拓判官に指名され、天皇や藩主から励ましの言葉を賜った感激の漢詩から始まっている。
 講師の合田氏もけっして漢詩の専門家ではないので全文を詳細に解読できるわけではない。文字の意味とか、漢詩全体から醸し出される空気から読み解いていく手法で我々受講者に話された。

               
               ※ 札幌市役所1階ロビーにある島義勇の銅像です。台座に彼の漢詩が記されています。

 ここでは札幌市役所内に立つ彼の銅像の下にも記されているあまりにも有名な漢詩を紹介することにする。札幌に入った義勇は札幌円山のコタンベツの丘に登り、この地に本府を造ろうと決意した時に詠んだ詩である。情熱を持って実行に着手しようとする彼の熱意が伝わってくる。

 将開府相地石狩國札縨群中賦以祝
 河水遠流山峙隅平原千里地膏腴
 四通八達宜開府他日五州第一都

 これでは漢詩に通じていない人には解釈はなかなか難しいだろう。
 次のように、その読み方を紹介することで少しは意味が伝わってくるものと思われる。

 将(まさ)に府を開かんとし 地を石狩国札幌中に相す 賦して以って祈(いの)る
 河水遠くに流れて 山隅にそばだつ 平原千里地は膏腴(こうゆ)
 四通八達宜しく 府を開くべし 他日五州第一の都

 これでも現代人にはけっこう抵抗が多い。義勇の意を汲むと、「この恵まれた平野に府を開いたら、いずれかの日、世界第一の都になるだろう」という内容だということだ。

               
               ※ 北海道神宮境内に立てられている島義勇の銅像です。

 しかし、ご存じのようにその札幌建設を巡って義勇は上層部と衝突してしまい、その任に着いてからわずか三カ月足らずでその任を解かれてしまい、東京に呼び戻されることになってしまった。

 京之命且喜且歎其歎不終開拓之業也
 天子明照千里外 恩?殊許帰都會
 但願此府後判官 能得開拓規模大
  (?のところは上と日が上下に重なった文字である。読み方分からず)

 合田氏の解釈は次のようなものだった。東京からの命令は喜びでもあり、嘆かわしいことでもある。嘆かわしいのは開拓の仕事を終えぬまま帰らねばならないことだ。天皇は遠い北海道のことも良くお分かりで、東京へ帰ることを許された。ただ後任への願いは開拓規模が大きいので能力のある人に就いてほしい。
 というように、天皇の命令に従い東京へ帰任するが後任のことまで心配しているところは、文字どおり後ろ髪をひかれる思いで札幌の地を離れたことがうかがえる詩である。

 いただいた資料にはまだまだたくさんの漢詩が載っているのだが、私の手にはとても負えないものだ。
 この後、義勇は幾多の職に就いたものの、最後は運命に導かれるように彼の故郷「佐賀の乱」に加担したことによって非業の死を遂げてしまうことになった。

 それにしても漢詩を前にした私は「猫に小判」状態であったのは嘆かわしいばかりである。せっかくの貴重な資料がまったく生かされないまま眠ってしまうことになりそうだ。願わくば再度同様な講座を開設していただき、義勇の思いをもう少し汲み取ってみたいものだ。

映画 106 田んぼ de ミュージカル 続編3部作

2013-10-19 22:24:37 | 映画観賞・感想

 「田んぼ de ミュージカル」で自信を得た穂別町のお年寄りたちは、「田んぼ de ファッションショー」、「いい爺ライダー」、「赤い夕陽の爺julie」と次々と映画を創っていった。それらを私は今回一挙に4本全てを観たのだった。

          
          ※ 上映会が行われレンガの館ホールです。レンガの壁がツタの葉に包まれてしまっています。

 第二作「田んぼ de ファッションショー」(2005年制作 40分)は、第一作の「田んぼ de ミュージカル」とは趣きをガラッと変えたドキュメンタリータッチの作品だった。「穂別の田んぼの中でお年寄り向きのファッションショーを行おう!」というコンセプトを基に、札幌のアパレルメーカーとコラボして、実際にファッションショーを開くまでの経緯を追い続けるというドキュメンタリータッチのもので、お芝居的要素が少ないために不自然さを感じない映画に仕上がった。

                      

 第三作の「いい爺ライダー」(2008年制作 55分)は、その題名がふるっている。あのピーター・フォンダ主演の「イージーライダー」をもじった題名であることは言うまでもない。本編と同じようにバイクは出てくるが、ヒッピーとは何の関係もない町村合併を巡る問題をパロディタッチで描き上げた作品である。穂別町はこの映画ができる2年前の2006年に隣の鵡川町と合併し「むかわ町」となっている。合併を巡ってはいろいろと論議があったのではないだろうか?そんなシリアスな話題をパロディとして取り上げているところにお年寄りたちの懐の深さをみる。
 お爺ちゃんたちがジージャンを羽織り、メットにサングラスでバイクを乗り回すところがなかなかサマになっていた。

          

 第四作の「赤い夕陽の爺yulri」(2011年制作 60分)となると、ヒントはおそらくマカロニウェスタンとして一世を風靡したイタリア映画の「夕陽のガンマン」あたりが思い浮かんだのではないだろうか。それに小林旭主演の「赤い夕陽の渡り鳥」が加わり、「爺」を入れるために沢田研二の愛称だった「ジュリー」をもじったのではないかと思われる。ここまでくると題名の付け方も秀逸というか、醜悪というか…。
 映画は戦後間もない頃の穂別の村づくりの苦労を西部劇仕立てにし、酒場のシーンや火事、拳銃の打ち合いなどもあり本格的です。しかし、そこここに笑いがあり、見ていて微笑ましくなる作品だった。

          

 この日は、二作目と三作目の間に、全四作の脚本を担当された斉藤征義さんのトークショーが間に入った。斉藤さんが語るには、映画づくりをすることで何よりお年寄りたちが元気になったことが一番だという。マチづくりも何もない。いかに楽しく生きて、死ぬかが問題だと…。「生ききる」ことが大切なんじゃないか、と斉藤さんは語った。
 これが最後といいながら4本も作ってしまったが、今度は本当に最後の映画として第五作の制作の準備を進めているそうだ。(題名は「紅い花白い花 咲き乱れ」という題らしいです)

          
          ※ 約30分、映画制作にまつわるあれこれを話してくれた斉藤征義さんです。

 地域においてお年寄りが元気だということは、マチ全体に活気が漲ることに繋がることではないだろうか。お年寄りが元気だというむかわ町穂別地区を訪れてみたくなった。


映画 105 田んぼ de ミュージカル

2013-10-18 22:25:55 | 映画観賞・感想

 以前からずーっと「一度は見てみたい」と思っていた映画である。この映画は穂別町(当時)のお年寄りたちがスタッフ・キャストを含め全て自分たちで制作した映画として一躍注目を集めた映画である。ようやく念願が叶った。 

          

 札幌のコミュニティ放送局としては老舗の一つ「三角山放送局」が開局15周年記念行事の一環として「田んぼ de ミュージカル 4部作一挙上映会」(観覧料1,000円)が10月8日~14日まで行われると知り、10月13日午後に琴似にある「三角山放送局」が入っている「レンガの館ホール」に駆け付けた。

 入場の際にいただいたリーフレットに書かれていた文章が面白い!
「2003年、開町90周年の旧穂別町(現在は鵡川町と合併)でトンデモナイ映画が誕生しました。監督も撮影も脚本も役者も全て高齢者のスタッフによる映画作り。しかも、歌って踊るミュージカル!えー!?」

          

 そうなんである。この映画は一般の映画のような期待をもって観る映画ではないのかもしれない。
 それまで映画などには縁もゆかりもなかった田舎のお年寄りたちが一念発起して全て手作りで映画を創った、その背景を感じながら観賞すべき映画なのだと思う。
 失礼ながら、セリフも踊りもそのレベルは小学生の学芸会並み、いやリズム感の良い子どもの方が踊りなどはずっと上をいっているかもしれない。

 第一作「田んぼ de ミュージカル」は、お年寄りの拙いセリフ廻しやちょっとサマにならない踊りで笑いを誘いながらも、内容は戦争に翻弄された男と女の物語というけっこうシリアスな内容なのだ。
 専門家から激賞されたという昔の結婚披露宴の様子は、私も子どもの頃に参列したことを思い出す光景だった。
 笑いをとりながらも、観る者を考えさせる45分の「田んぼ de ミュージカル」だった。

          

 映画の中で演ずるキャストのぎこちなさは笑いを誘うが、映画そのものは本格的である。映画監督であり、この映画作りの発端となった崔洋一氏が総合指導をしたこともあり、カメラアングルや、編集などは本格的だと感じることができた。
 何よりテレを隠しながら演じていることが観る者に伝わってくる微笑ましさ、画面には見えないところで懸命に奮闘するスタッフ、その人たちの平均年齢が70歳を超えるお年寄りたちだというのだから驚いてしまう。
 第一作を完成させ、予想外の反響に気を良くしたスタッフやキャストは、ますます元気になり、第二作、第三作、第四作と次々と完成させたのだった。

(続編については明日投稿することにします)


木質バイオマスの可能性

2013-10-17 20:41:09 | 講演・講義・フォーラム等
 木質バイオマスは資源として相当な優等生であるらしい。らしいとしか表現できないところが素人の悲しさであるが、木質バイオマスの研究家からその素晴らしい可能性について話をうかがった。 

 「バイオマス」とは、いろいろな定義があるようであるが、ここでは「生物由来の資源」と定義して話を進めることにする。そして「木質バイオマス」とは、木材からつくられる再生利用が可能なエネルギー源を指すことはご存じのとおりである。
 その木質バイオマスが資源としてはバイオマスの中でも最大の蓄積量(地球上の森林資源)を誇るという話なのである。

 10月12日(土)午後、北大博物館の土曜市民セミナーに参加した。テーマは「木質バイオマスの総合利用とその今日的意義」と題して、北大大学院農学部講師の幸田圭一氏が務められた。

          

 バイオマスの資源としての優位性は、エネルギー資源としても、工業資源としても活用できる点にある。バイオマスと同じように両方の資源として活用できるのは他には化石資源しかないということだ。
 そして前述したようにそのバイオマスの中でも「木質バイオマス」は地球上に相当量の蓄積があるという優位性がある。さらに木質バイオマスを活用した場合は化石資源と違って、カーボンニュートラルの考え方から環境に負荷を与えないという利点がある。但し、化石資源と比較した場合に液体で移動が可能な化石資源に対して、バイオマス資源は固体での移動となる点が一つの隘路ということである。

 講座の中で「資源のカスケード利用」という言葉を聞いた。
 カスケード(cascade)とは、「階段状に水の落ちる滝」という意味から、「カスケード利用」とは、資源を価値の高いレベルから活用し、だんだんと低いレベル段階においても有効活用を図ることだそうだ。つまり資源を1回だけで使い切るという考えではなく、使って性質が変わったものも資源として考えたり、使う際に出る廃棄物を別の用途に使用したり、使用の後も更に別の用途に使用する、というように資源を極限まで有効活用するという考え方である。
 例えば、木質バイオマスの場合、森林の樹木を伐採した後、住宅や木製家具などに利用し、その残渣やその後の廃棄物を粉砕し木質ボードや紙・パルプ原料に利用する。さらには、活用を終えたものを最後には燃料に利用するなどといったことが考えられる。

 一見、いいことづくめのような「木質バイオマス」であるが、前述したように輸送のコストがかかるとか、資源が豊富であるとは言っても地球上に広く分布していて、それらを化石資源の代替として考えるにはあまりにも効率が悪いという問題があるということである。

 現状においては化石資源と比較すると、その収集にコストがかかり過ぎ、経済的に見て化石資源の代替資源とはなり得ていないのが現状である。
 幸田氏は最後に強調した。
 「現在は資源として化石資源には太刀打ちできないが、やがて枯渇すると云われている化石資源である。その時には必ずやバイオマス資源に脚光が当たるはずである。その時のためにも木質バイオマスの研究をし続けることが重要である」とした。

 木質バイオマス資源(エネルギー)は、再生可能エネルギーのエースとして、また 木質バイオマス資源(エネルギー)は、再生可能エネルギーのエースとしてカーボンニュートラルなエネルギーとして、その注目度は高い。
 さらなる研究の進展によって、化石資源(エネルギー)に一日も早く取って代わる日が来ることを期待したい。

パークゴルフ考

2013-10-16 21:56:38 | スポーツ & スポーツ観戦
 北海道の中高年を熱中(?)にさせているパークゴルフ。今回「オヤジの会」10月例会で久しぶりにプレーした。今や北海道はおろか、全国、海外にまで普及しつつあるパークゴルフの魅力について考えてみた。

          
          ※ この日はカメラを持参しなかった。したがってこの写真はウェブ上から拝借したものです。

 オヤジの会の10月例会は会員のH氏の企画で「パークゴルフ」ということになった。これまでさまざまな見学や体験をしてきた私たちの会だったが、パークゴルフとは盲点だった。誰もが経験済みかと思われたのだが、初体験の者が3人もいたのだ。
 私たちは10月8日(火)午前、「ばんけいスキー場パークゴルフ場」というゲレンデ下部に設けられた山岳コース(?)でプレーした。
 それぞれの成績は初心者とはいえそこそこだったようだが、この日も多くの人たちがプレーを楽しんでいた。

 なぜこれほどパークゴルフは多くの人を熱中させているだろうか?私なりに考えてみた。
 まず、最大の要因は誰もが容易に競技を楽しめる点だろう。
 パークゴルフをただ楽しむだけなら、特別な技術もいらず誰でもすぐに楽しむことができる。実際、今回初めてプレーをしたという3人の人たちも楽しくプレーをしていた。

 それでいて、実はけっこう奥が深い競技でもある。
 パークゴルフは角度がついていないクラブを一本しか使わずに競技するゴルフである。
 だから、私などはボールをただ転がしてホールを狙うだけだが、上級者になるとライナー打ち、かぶせ打ち、カット打ち、すくい打ちなど、一本のクラブで打ち分け、難コースを攻略するということだ。

 三つ目に考えられるのは経済的負担が少ないということである。上記したようにクラブは1本のみである。普及品だと5,000円前後、高級品でも2~3万円程度である。
 プレー料金はコースによって千差万別のようだが、高いところでも一日プレーしても1,500円程度である。ちなみに私たちがプレーした「ばんけいスキー場パークゴルフ場」は36Hプレーして800円、クラブのレンタル料が300円だった。

            

 こうした利点がある上、健康づくりに役立つという利点もある。アウトドアでの競技であり、狭いとはいえ緑の中をけっこう歩かねばならないから自然に足腰が鍛えられる。
 私たちもコースが山岳コースだったこともあって、36H廻った後はかなり足腰に疲れが残っていた。

 数年前の話であるが、私と同じ年に退職し旭川市に居を構えた知人を訪ねたことがあった。現職時代からパークゴルフを趣味にしていたようだが、退職してからは天候さえよければ毎日のようパークゴルフ場に夫婦そろって出かけていると日焼けした顔で語っていたが、彼などはパークゴルフの魅力にすっかりはまってしまった一人だろう。

 このように健康志向の中高年世代から受け入れられ、全道、全国に広がったパークゴルフだが、その要因の考察はあくまで素人である私の考えである。セミプロを自称されているような熱心な方はまた違った見方をしているかもしれない。そうした方の見解をぜひ伺いたいとも思った。


「松前詰合一条」が明かす津軽藩士殉難事件

2013-10-15 23:23:47 | 大学公開講座
今からおよそ200年前の文化4年(1807)、蝦夷地と呼ばれた北海道のシャリ(斜里)場所で、北方警備についていた津軽藩の藩士たちが、寒さと病、飢えのため100人の藩士のうち72人が次々となくなる事件があったが、闇に葬られたままだったという。ところが…。 

 札幌学院大学コミュニティカレッジの後期講座が始まった。
 私は昨年に引き続き、札幌在住のノンフィクション作家・合田一道氏の「古文書に見る歴史の転換点」(三回シリーズ)を受講することにした。
 その第1回講座が、10月10日(木)午後、札幌学院大学社会連携センターで行われた。
 第1回目のテーマは「『松前詰合一条』に見る蝦夷地防備の実態」というものだった。
 「松前詰合一条」とは、シャリ場所警備を担当した津軽藩の当時22歳だった斉藤勝利という若い藩士が記した日記である。
 その日記はシャリ場所において藩士が次々と亡くなっていく過酷で悲惨な実態を克明に綴ったものだった。かろうじて生き延びた斉藤が津軽藩に帰還したとき、藩は日記を公開することは津軽藩の恥であるとして公開厳禁とした。こうして72名もの藩士が死んだことは闇から闇へ葬られようとしていた。

          
          ※ 「松前詰合一条」の写しを手に講義する合田一道氏です。

 ところが事件から150年近く経過した昭和29年(1954)、当時北大教授だった高倉新一郎氏が偶然にも東京の古本屋で、表紙に「他見無用(たけんむよう)永く子孫江伝(つたう)」と書かれた「松前詰合一条」を発見したのである。この発見により「津軽藩士殉難事件」は公のものとなった。
 その「松前詰合一条」の写しを講師の合田氏は関係者を通じて入手したという。

               
※ 合田氏が入手した「松前詰合一条」の写しです。表紙の右肩に「他見無用永く子孫江伝」という文字が見えます。(私には読めませんがね…)             

 講座は、その写しの一部をさらに写したものを私たち受講者に配布された。
 文語体の文章はなかなか難解である。その文章を合田氏が読み進めていくのだが、細かな表現は理解できないながらも大意は掴むことができる。
 例えば11月14日(太陽暦では12月12日)の日記には次のような記述がある。
 「(前略)日増氷りはり其之上氷り押上り大山の如くに相成申候皆々驚入申候事も御座候」 
 当時は12月中旬には斜里海岸に流氷が押し寄せ、それらが折り重なって山のようになっていると書いている。現在の斜里地方の冬より厳しい気候だったことが窺える。

 さらには3月15日の日記にはこう書いてある。
 「三御長屋御人数病気相成 病気之者も多候御座得ば何となく物淋敷相成尚又飲料取世話いたし方水汲之ものも無之枕並べ而寂?し有様見るに哀を催せし候(後略)」
 すでにこの時点で私が数えたところ69名が病死し、藩士は半数以下になっている。生き残っている者も病や飢えのために寝込んでしまって、水汲みの人もいないという有様は哀れを催すと述べている。

 ところでこうした記録を残した「松前詰合一条」は藩によって公表が厳禁されたという。これは合田氏によると当時はこうした藩の不祥事が江戸幕府に知れると幕府から厳しい処置が下されることを藩が恐れたということのようだ。そのため斉藤勝利は表紙に「他見無用(たけんむよう)永く子孫江伝(つたう)」と表紙に記したようだ。

                  
                  ※ シャリ場所で亡くなり、葬られた藩士の墓所を記録した記帳の写しです。

 それにしても、もし斉藤勝利がこのような日記を記していなかったとしたら、そしてもし高倉新一郎教授によって古文書が発見されなかったとしたら、72名の命は闇から闇へ葬られたままになってしまったことになる。
 あるいは人知れず歴史の中に埋もれてしまった史実というのはもっともっとあるのかもしれないと思わせてくれた今回の講座だった。
 いや~、古文書を紐解くことってけっこう私たちを興奮させてくれますねぇ~。

エンディングノート

2013-10-14 21:30:09 | 講演・講義・フォーラム等
 「エンディングノート」という映画があった。(私も観たがなかなかの秀作だった。)しかし、今回は映画の話ではない。「実際にエンディングノートを書いてみよう」という講座を受講した話である。 

 コープさっぽろが主催する「コープさっぽろオトナ学」~人生再設計のススメ~という講座を受講することにした。10月から来年3月まで月に1度の割合で6回開講する講座である。
 その第一回目が10月10日(木)午前、コープさっぽろ中央文化教室(中央区北1東 明治安田生命ビル内)で行われた。
 第1回目のテーマは『エンディングノートの役割と書き方』というものだった。

 エンディングノートとは? 「高齢者が人生の終末期に自身に生じる万一のことに備えて自身の希望を書き留めておくノート」ということだが、いわゆる遺書のように法的に効力があるものではなく、あくまで家族や周りの人に自分からのメッセージを伝えるメモ的なものとして、最近注目されているという。

              
              ※ 配布された手作り感あふれる「エンディングノート」です。

 講座では講師のライフプランアドバイザーである佐藤典子氏が自ら手作りした(?)エンディングノートが配布され、それに従って書き方や留意点などが話された。
 渡されたエンディングノートの項目は次のようになっていた。
 ①プロフィール、②これまでのわたし、③家族、④我が家の家系図、⑤医療・介護について、⑥もしもの時に知らせてほしい連絡先、⑦葬儀・お墓のこと、⑧財産管理、⑨遺言について、⑩大事な人へのメッセージ、となっていて総数で28ページである。

 実は私は同じ佐藤氏の講座を以前受講していたのだが、そのときは知識としてエンディングノートについて学んだだけで、いだいたエンディングノートも作成することなく放っておいたのだが、2度目を受講したこともあり「今度は一度作成してみようかな」と考えている。

 自分自身、人生の終末期などまだまだとは思っているが、病気や事故は自らの想定外に襲ってくることが多い。
 もし、例えそうした事態に遭ったとしても周りにできるだけ迷惑をかけないめにも、そろそろエンディングノート的なものは用意しなくてはならないのだろうなぁ、と受講しながら考えた私だった…。

鈴木夕張市長おおいに語る

2013-10-13 21:23:04 | 講演・講義・フォーラム等
夕張市長の鈴木直道氏はナイスガイ(一時代? いや、二時代前の言い方だねぇ)だった。自らが夕張市長になったいきさつを、ユーモアを交えながらも謙虚に語った。 

               

 鈴木直道氏というと、東京都職員を経て2年間夕張市役所に派遣された後の2011年、30歳1ヶ月という若さで夕張市長に初当選された方である。
 それから2年、夕張市の市政運営はどうなっているのか?そうした興味があって会場に赴いた。

 「道民カレッジ」が直接開催している数少ない講座の一つに「かでる講座」がある。おおよそひと月に一度くらいの割合で開設している講座である。その「かでる講座」の10月の講座が10月9日(水)午後に開催され、その時の講師が鈴木夕張市長だったということである。

 鈴木氏が東京都職員時代に2年間夕張市に派遣されていたことは良く知られていることであるが、その前後のことについて興味深い事実がいろいろと語られた。
 まずは、高卒だった鈴木氏が東京都職員として務めながら法政大学(夜間)に学んだということだったが、そこで熱中したのがボクシング部での活動だったという。その活動は本格的なもので4年生の時には部の主将まで務め、国体の東京都予選では決勝戦まで勝ち進んだという。あの端正な顔立ちの鈴木氏がボクシングの経験者とは意外な気がした。しかし鈴木氏にとってはボクシングにのめり込み、苦しい練習に耐えたことがその後の人生に大きく影響していると語った。

 また印象的だったのが、鈴木氏が人生の転機において常に前向きに考え、積極的に自らの人生を切り拓いていったことだ。
 鈴木氏は東京都に就職してからも埼玉県の実家から片道2時間かけて通勤していたという。その上大学に通っていたわけだから相当に過酷な毎日だったようだ。途中で通勤は無理ということで寮に入ったということだが、それでも二足のわらじは大変だったようだが、鈴木氏はけっして弱音を吐かなかったという。
 そして東京都の職員は26歳になって初めて昇進試験を受ける資格ができるそうだが、鈴木氏はそれを一回で通過してしまうのだ。そこを26歳で通過したことが、夕張市派遣に繋がっていったということだ。その際も、鈴木氏は打診があったときに、自分のキャリアにプラスになると判断して派遣を受け入れたということだった。
 2年間の夕張市派遣を終え、今度は総理府に派遣されたそうであるが、そこへ夕張市の有志から夕張市長選出馬を要請されという。そこでも鈴木氏は周囲の反対を押し切り、チャレンジする道を選択し、夕張市長の座を射止めたのである。

          
          ※ 「かでる講座」において私たちに語りかける鈴木夕張市長です。

            
 鈴木氏の当日のテーマは「やらなきゃゼロ」と題して、夕張市長として夕張市が抱える課題と、それに対してどのように課題解決を図っているかという予定のようだった。事実、24頁にもわたる資料も準備してくれた。
 ところがその話題に入る前段のお話で時間が過ぎてしまった。ある意味、鈴木氏にとっては市長になるまでのことが、氏自身にとっていかにドラマチックな展開だったかということを物語っているようだった。
 市長となって2年、その行政的手腕を云々するのは早すぎるのかもしれない。ただ、話の中で時々垣間見せる言葉の端々に市長としての力量の一端を私たちに見せてくれたようにも思われた。
 課題が山積していると云われる夕張市の復活のために、若さとバイタリティで奮闘されることを期待したい。

映画 104 そして父になる

2013-10-12 17:13:52 | 映画観賞・感想

 カンヌ映画祭で審査員賞を受賞し、さらにはスピルバーグ氏によるアメリカ版リメイクのニュースが流れるなど、今話題の映画を観た。重いテーマである。こうしたことが自分に起こったら…、と思いながら映画を観つづけた。 

               
               ※ “愛した息子を交換できますか?”というキャッチコピーが観る者に問いかけます。

 申し分のない学歴や仕事、良き家庭を自分の力で勝ち取ってきた野々宮良多(福山雅治)。順風満帆な人生を歩んできたが、ある日、6年間大切に育ててきた息子が病院内で他人の子どもと取り違えられていたことが判明する…。物語はここから始まった。

 10月5日(土)午後、「話題の映画をチェックしなくては」(それほどの映画通でも、映画ファンでもないのだが…)との思いから、ユナイテッド・シネマ札幌に赴いた。
 
 産院で子どもが取り違えられていた、という事件はテレビのニュースで伝えられたり、テレビドラマなどにもなったり、ということは見聞きしていたが私には現実感のない他人事としてこれまで考えてきた。
 しかし今回、映画の中ではあったがこうした問題に「もし自分が直面したら…」という思いで見ることができたのは映画の力があったからとも思われた。
 映画の力とは、ストーリーの力、演出の力、キャストやスタッフの力…、などなどが高いレベルで結集した結果だと思う。

          
          ※ 取り違えられた二つの家族です。リリーフランキーの側には他にも子どもがいるが…。

 取り違えられた相手の家庭は良多の家庭とは正反対の家庭だった。経済的にはけっして豊かではないものの、庶民的で父親はいつも子どもの遊び相手をしている零細な商店経営者(リリー・フランキー)である。
 いくつかの経緯の後、二つの家庭では子どもを本来の家庭で暮らしてみることを試みた。
良多の実子(琉晴)は、良多に馴染まず良多をイライラさせる。一方、反対に育てた子(慶太)はくったくなく商店経営者になついていく…。あゝ、ネタバレになってしまう恐れがあるのでストーリーについてはこの辺りでストップすることにする。

 映画は「この後、二人の子どもはどうなるのだろうか…」という思いを観る者が思いつつ余韻を残してthe endとなる。

          
          ※ 監督の是枝裕和氏とカンヌ映画祭の審査委員長を務めたスピルバーグ氏が握手をしている絵です。

 こうした問題に私が直面したら…。うろたえ、悩み、苦しみながらどんな答えを出すだろうか? 正解のない問題だけに、答えを出せない私だった…。
 映画の中では弁護士の口を通して「一般的にはみなさん本来の子どもと交換します」と言うが…。はたしてそんなに簡単に割り切れるものか?
 う~ん。最後まで「自分ならどう考え、どう行動するのか」という思いを抱きながらの観賞となった。それを考えさせ続けるだけの力が映画にあったということだと思う。