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「屯田兵制度」誕生秘話を古文書に読む

2013-10-30 15:15:03 | 大学公開講座
北海道の開拓は未開に地を拓くことと共に、ロシアからの脅威に備えるという目的があった。そうした背景もあり、北海道開拓を担った「屯田兵」制度の設置が非常に速いスピードで進められたことが分かった。
 

 札幌学院大コミュニティカレッジ「古文書に見る歴史の転換点」の第三講座(最終講座)は10月24日(木)午後「古文書に見る『屯田兵制度』の誕生」と題されて行われた。

 講師の合田一道氏から提供された古文書(写し)は、屯田兵制度の設置を訴えた建白書、「屯田兵条例」、そして屯田兵が西南戦争に従軍した際の開拓小書記官の「戦闘日誌」である。

 明治2年(1869)に開拓使の設置が決まったが、内実が伴い始めたのは明治4年だという。それからわずか2年後の明治6年、黒田次官のもとで実質的に北海道開拓の指揮を取っていた4名の官吏が屯田兵の設置について、明治6年(1873)11月に次のような書き出しで右大臣 岩倉具視に建白書を提出している。

 「兵備ノ設ケハ国家ノ扞衛シ、人民ノ保護スル所以ニシテ、一日モ廃ス可ラザルモノナリ。(中略)然ルニ樺太ハ中外離居ノ地ニシテ封彊ノ守リ、国家ノ一大患、殊ニ近日ノ情状極メテ切迫セルハ、人々皆能ク知ル所、復此ニ贅言スルヲ須ヒズ。(後略)」
                                              開拓八等出仕 永山武四郎
                                              右同大主典  永山 盛弘
                                              右七等出仕  時任 為基
                                              右 同    安田 定則

 建白書からは樺太(ロシア)からの脅威が切迫していて、その守りに備えることが急務であるとの訴えを読み取ることができる。なお、建白書を提出した4名の官吏のうち、後年北海道開拓において最も重責を担った永山武四郎が一番下の位に位置している。
 なお、この4名が全て薩摩出身であるというのも面白い事実である。

               
               ※ 後に北海道丁官に就任する永山武四郎の肖像です。

 この建白書が政府中枢において容認の方向へ向かったためだろうか、それから僅か一ヶ月後に当時の北海道開発のトップにいた黒田次官(長官は不在)が右大臣 岩倉具視に建白書を提出している。そこでは屯田兵制度についてより具体的な建議を行っている。

 「北海道及ビ樺太ノ地ハ、当使創置以来専ラ力ヲ開拓ニ用イ、未ダ兵衛ノ事ニ及バズ。今ヤ開拓ノ業漸ク緒ニ就キ人民ノ移住スル者モ亦随テ増加ス。之ヲ鎮撫保護スル所以ノ者無ナカルベカラズ。況ンヤ樺太ノ国家ノ深憂タルハ固ヨリ論ヲ待タズ。(中略)函館県及青森、酒田、宮城県等士族ノ貧窮ナル者ニ就イテ、強壮ニシテ兵役ニ堪ユベキ者精撰シ、挙家移住スルヲ許シ、(後略)」

こ こでも黒田は北海道の兵備が急務のことを訴え、兵の募集については生活に困窮している東北の士族を当てよと建議している。

 そして、その2年後の明治8年(1875)には早くも当時の琴似村に第1回の屯田兵198戸が入植しているのである。
 このスピード感は驚くほどだ。それだけまだ行政の組織が簡素であり、政府の主たる官吏が薩摩、長州など〈特に北海道は薩摩出身者がそのほとんどを占めていた)のいわゆる「雄藩」によって占められていたことによると思われる。

 「屯田兵条例」や屯田兵の「戦闘日誌」について触れるには字数が長くなりすぎてしまう。そこで明日別のタイトルで後編を投稿することにします。