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私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

北海道開拓の父 島義勇の漢詩を読む

2013-10-20 22:02:27 | 大学公開講座
文語体の古文書でも四苦八苦しているのに、漢詩となるともうお手上げである。ただただ講師の解説を伺うだけだった…。島義勇の壮大な計画と無念さを彼の漢詩から読み解く講座だった。 

 札幌学院大コミュニティカレッジの第二講が10月17日(木)午後開講された。今回は「『北海道紀行』に見る島義勇の決意」というテーマだった。
実は、島義勇が著した「北海道紀行」は北海道神宮が所蔵するもので、調べてみると「北海道紀行 島義勇漢詩集」として北海道神宮奉賛会から一冊の本として発刊されているのだが非売品ということで世間には広まっていない詩集らしい。そのため講師の合田一道氏も「文書の取り扱いには注意してほしい」と断りを入れて、私たち受講者に写しを渡された。

               
               ※ 教科書などに登場する島義勇の正装した姿です。

 
 島義勇の履歴、功績についてはかなり有名になっているので、ここでは重複を避けることにする。
 漢詩は明治2年に島が北海道開拓使の首席開拓判官に指名され、天皇や藩主から励ましの言葉を賜った感激の漢詩から始まっている。
 講師の合田氏もけっして漢詩の専門家ではないので全文を詳細に解読できるわけではない。文字の意味とか、漢詩全体から醸し出される空気から読み解いていく手法で我々受講者に話された。

               
               ※ 札幌市役所1階ロビーにある島義勇の銅像です。台座に彼の漢詩が記されています。

 ここでは札幌市役所内に立つ彼の銅像の下にも記されているあまりにも有名な漢詩を紹介することにする。札幌に入った義勇は札幌円山のコタンベツの丘に登り、この地に本府を造ろうと決意した時に詠んだ詩である。情熱を持って実行に着手しようとする彼の熱意が伝わってくる。

 将開府相地石狩國札縨群中賦以祝
 河水遠流山峙隅平原千里地膏腴
 四通八達宜開府他日五州第一都

 これでは漢詩に通じていない人には解釈はなかなか難しいだろう。
 次のように、その読み方を紹介することで少しは意味が伝わってくるものと思われる。

 将(まさ)に府を開かんとし 地を石狩国札幌中に相す 賦して以って祈(いの)る
 河水遠くに流れて 山隅にそばだつ 平原千里地は膏腴(こうゆ)
 四通八達宜しく 府を開くべし 他日五州第一の都

 これでも現代人にはけっこう抵抗が多い。義勇の意を汲むと、「この恵まれた平野に府を開いたら、いずれかの日、世界第一の都になるだろう」という内容だということだ。

               
               ※ 北海道神宮境内に立てられている島義勇の銅像です。

 しかし、ご存じのようにその札幌建設を巡って義勇は上層部と衝突してしまい、その任に着いてからわずか三カ月足らずでその任を解かれてしまい、東京に呼び戻されることになってしまった。

 京之命且喜且歎其歎不終開拓之業也
 天子明照千里外 恩?殊許帰都會
 但願此府後判官 能得開拓規模大
  (?のところは上と日が上下に重なった文字である。読み方分からず)

 合田氏の解釈は次のようなものだった。東京からの命令は喜びでもあり、嘆かわしいことでもある。嘆かわしいのは開拓の仕事を終えぬまま帰らねばならないことだ。天皇は遠い北海道のことも良くお分かりで、東京へ帰ることを許された。ただ後任への願いは開拓規模が大きいので能力のある人に就いてほしい。
 というように、天皇の命令に従い東京へ帰任するが後任のことまで心配しているところは、文字どおり後ろ髪をひかれる思いで札幌の地を離れたことがうかがえる詩である。

 いただいた資料にはまだまだたくさんの漢詩が載っているのだが、私の手にはとても負えないものだ。
 この後、義勇は幾多の職に就いたものの、最後は運命に導かれるように彼の故郷「佐賀の乱」に加担したことによって非業の死を遂げてしまうことになった。

 それにしても漢詩を前にした私は「猫に小判」状態であったのは嘆かわしいばかりである。せっかくの貴重な資料がまったく生かされないまま眠ってしまうことになりそうだ。願わくば再度同様な講座を開設していただき、義勇の思いをもう少し汲み取ってみたいものだ。