今は亡き高倉健の出世作である「網走番外地」の第4作目となる「北海篇」である。内容としては、私が語るほどもない駄作と言ってもいいのでは? 稀代の名優と言われた高倉健にとって、荒唐無稽の典型のような映画に、当時はどのような思いでカメラの前に立っていたのだろうか?
めだかの学校の7月の定例学習会が7月13日(月)午後、かでる2・7で行われた。
今年度の学習は「映画の中の北海道~昭和編」として北海道に関する映画を視聴することを中心に学習を進めている。そうした中、今月取り上げたのが「網走番外地 北海篇」だった。
映画「網走番外地」の第1作は1965年に封切られたが、当時は映画2本が同時に上映される中の添え物的な白黒映画として制作された。ところがこれが思わぬ大ヒットとなってシリーズ化されるのである。「北海篇」はそのシリーズの第4作目にあたるが、同じ1965年に制作されているというから、一年間で4本制作されたことになる。その粗製乱造ぶりが容易に想像される。
映画としての「北海篇」は語るほどもない内容である。確かに映画は冬場の北海道を舞台にロケしたものであるが、映画の中で刑務所内のシーンは時間にしてわずか10分の1程度で、主人公の橘(高倉健)が網走刑務所を仮出所したという設定で、冬の雪道上において展開される映画である。
荒唐無稽とも思えるストーリーについて、紹介する気も起らないほどである。私は第1作目も観ているが、それは手錠をはめられたまま脱獄した二人の脱獄囚が列車の車輪で手錠を壊すというスリリングな場面が印象に残った。しかし、「北海篇」では何一つ印象的シーンすら残らない映画だった。それにもかかわらず、興行成績は1965年の第2位だったという。当時、映画に寄せる人々の関心が奈辺にあったのか窺い知ることができる興味深い事実である。
※ 往年の高倉健さんのポートレートです。
さて、そのような映画に出演し続けた高倉健の心中についてであるが、Wikiの中で興味深い事実を知った。やはり当時高倉健はこの映画に出演することを躊躇ったらしい。ところが、当時の東映首脳部は「それなら他の者に演じさせる」と当時無名の高倉を半ば脅迫するように促したようだ。そのようなことがあり、高倉も吹っ切って出演を続けたのではないだろうか?
映画は翌年、翌々年と年間3本ずつが制作されたが、やはりその粗製乱造が人々から飽きられたのだろか?徐々に興行成績が落ちたことにより、1967年をもってシリーズは一度途切れることになるのである。
それむべなるかな、と思う私だった…。