反ハプスブルク最後の砦
サポヤイ・ヤーノシュ妃 イジャベラ・ヤゲロー
1519~1559/在位 (1539~1540)
ラヨシュ2世が20歳の若さで戦死した時、王妃マリアとの間には嫡子がいませんでした。
そんなわけで、マクシミリアン1世の狙い通りハンガリーとボヘミアの王座には
ウラースロー2世王女アンナの夫フェルディナント1世が即位しました。
この後はマリア・テレジア時代を除き、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝が
ハンガリー・ボヘミア王を兼ねることになります。
しかし、よそ者の王を嫌う風潮はどこにでもあるものです。
ボヘミアでは比較的スムーズだったものの、ハンガリーでは抵抗がありました。
その急先鋒がサポヤイ家のヤーノシュでした。
ヤーノシュはポーランド王ジグムント1世妃バルバラの兄です。
ヤーノシュは国内の貴族からは選出されたものの、王位がオスマン帝国頼みだったため
他のヨーロッパ諸国から王として認められませんでした。
サポヤイの妻になったイジャベラは、ジグムント1世と
2番目の妃ボナ・スフォルツァの王女で、ヤーノシュとは義理の伯父と姪?
イジャベラは母ボナからイタリア語やルネサンスを教え込まれ
教養豊かな娘に育ちました。
1539年、イジャベラはハンガリー対立王ヤーノシュと結婚します。
翌年には息子のヤーノシュ・ジグモンドが生まれましたが
夫ヤーノシュはその2週間後に亡くなってしまいました。
イジャベラは(一時期女王と名乗ったりもしたようですけど)
とにかく幼い息子の王位を守らなければならなくなりました。
しかし、1541年にはブダがオスマン帝国に奪われトランシルヴァニアへ向かいます。
10年ほど統治者としてトランシルヴァニアですごしていましたが
真の統治者はイジャベラが大嫌いな枢機卿ジェルジ・マルティヌッツィでした。
1551年、トランシルヴァニアがフェルディナント1世の手に落ちると
ニールヴァートル条約によってその地も離れることになります。
トランシルヴァニアはヤーノシュが貴族になって与えられた領地だったし
息子を返り咲かせるための最後の砦だったのに…さぞや悔しかったことでしょう
言い伝えでは国を後にしてメシェスの門で休息をとった時
そこにあった古い樫の木に “ SVC ” と刻んだことになっています。
英語にすると “ Will of fate ” …「これが運命か」とでも訳しましょうか?
彼女の無念さが届いたか、1556年にはハンガリーからの要請で息子を連れて帰国し
トランシルヴァニアを息子とともに治めました。
イジャベラは、ナントの勅令に先んずること40年、
1558年に宗教の自由を認める勅令を出した初めての君主です。
世が世なら、そして正式に王妃になっていたら
後世まで語り継がれる賢王妃になっていたかもしれません。
なんで対立王と結婚しちゃったかしら?
なよなよ育ってきた後継ぎ王より、自分で勝ち取ろうとするヤーノシュに
男の魅力を感じちゃいましたかね?
(参考文献 Wikipedia英語版)
サポヤイ・ヤーノシュ妃 イジャベラ・ヤゲロー
1519~1559/在位 (1539~1540)
ラヨシュ2世が20歳の若さで戦死した時、王妃マリアとの間には嫡子がいませんでした。
そんなわけで、マクシミリアン1世の狙い通りハンガリーとボヘミアの王座には
ウラースロー2世王女アンナの夫フェルディナント1世が即位しました。
この後はマリア・テレジア時代を除き、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝が
ハンガリー・ボヘミア王を兼ねることになります。
しかし、よそ者の王を嫌う風潮はどこにでもあるものです。
ボヘミアでは比較的スムーズだったものの、ハンガリーでは抵抗がありました。
その急先鋒がサポヤイ家のヤーノシュでした。
ヤーノシュはポーランド王ジグムント1世妃バルバラの兄です。
ヤーノシュは国内の貴族からは選出されたものの、王位がオスマン帝国頼みだったため
他のヨーロッパ諸国から王として認められませんでした。
サポヤイの妻になったイジャベラは、ジグムント1世と
2番目の妃ボナ・スフォルツァの王女で、ヤーノシュとは義理の伯父と姪?
イジャベラは母ボナからイタリア語やルネサンスを教え込まれ
教養豊かな娘に育ちました。
1539年、イジャベラはハンガリー対立王ヤーノシュと結婚します。
翌年には息子のヤーノシュ・ジグモンドが生まれましたが
夫ヤーノシュはその2週間後に亡くなってしまいました。
イジャベラは(一時期女王と名乗ったりもしたようですけど)
とにかく幼い息子の王位を守らなければならなくなりました。
しかし、1541年にはブダがオスマン帝国に奪われトランシルヴァニアへ向かいます。
10年ほど統治者としてトランシルヴァニアですごしていましたが
真の統治者はイジャベラが大嫌いな枢機卿ジェルジ・マルティヌッツィでした。
1551年、トランシルヴァニアがフェルディナント1世の手に落ちると
ニールヴァートル条約によってその地も離れることになります。
トランシルヴァニアはヤーノシュが貴族になって与えられた領地だったし
息子を返り咲かせるための最後の砦だったのに…さぞや悔しかったことでしょう
言い伝えでは国を後にしてメシェスの門で休息をとった時
そこにあった古い樫の木に “ SVC ” と刻んだことになっています。
英語にすると “ Will of fate ” …「これが運命か」とでも訳しましょうか?
彼女の無念さが届いたか、1556年にはハンガリーからの要請で息子を連れて帰国し
トランシルヴァニアを息子とともに治めました。
イジャベラは、ナントの勅令に先んずること40年、
1558年に宗教の自由を認める勅令を出した初めての君主です。
世が世なら、そして正式に王妃になっていたら
後世まで語り継がれる賢王妃になっていたかもしれません。
なんで対立王と結婚しちゃったかしら?
なよなよ育ってきた後継ぎ王より、自分で勝ち取ろうとするヤーノシュに
男の魅力を感じちゃいましたかね?
(参考文献 Wikipedia英語版)