フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー
“ ユーモア小説集 ” と書いてあったので、お珍しい と思い購入しました。
うぅぅむ、確かに笑わせてくれようとしてるかもしれないのですけど…
愉快に笑えないのです、私。
以前チェーホフ・ユモレスカを買った時には、内容というよりは訳が!
「◯◯なんじゃ!」「◯◯だんべ」(思い出せないので適当です)的な言葉に
閉口したのですけれど、ドストエフスキーの方はちょっと哀しいんですよ。
これで笑えと言われましても… というのが正直な感想です。
4篇なので簡単(すぎるほど)に全部ご紹介します。
『九通の手紙からなる小説/1847年』
慇懃な内容から始まって、やり取りを重ねるうちに罵詈雑言を書き連ねるようになる
ピョートル・イワーヌイッチとイワン・ペトローヴィッチの手紙。
とうとう、お互いの妻のことにまで及んで…
メールでなくて良かったよ…手紙なら少なくとも中1日はかかるものね。
書いていくうちに、あれもこれもと追加したくなる気持ちはよく分かります。
『他人の妻とベッドの下の夫/1848年』
嫉妬深い夫が妻をつけまわるうちに浮気相手らしい青年に出会います。
後日現場にのり込もうとすると女は人違い、慌ててベッドの下に隠れたら
その青年が先に潜んでいました。
夫の態度に『永遠の夫』を連想させられてイライラします!
しゃべればしゃべるほど墓穴を掘るというのに、なぜ黙ってられないかな?
『いまわしい話/1862年』
同僚の家で人道的な行いについてひとくさり論じたイワン・イリイチは
帰りに部下の結婚式に気付き、身分を超えて顔を出してやることにします。
皆の感激する表情を思い浮かべてほくそ笑むイワン・イリイチでしたが…
イワン・イリイチの災難を笑うより、新郎のプセルドニーモフの今後を考えると
可哀想で涙が出てしまう、というのが私の感想でございます。
『鰐(1865年)』
友人夫妻とドイツからやってきた巨大な鰐の見せ物を見に行ったセミョーン。
ふとした隙に友人のイワンが鰐に飲み込まれてしまいます。
右往左往する人々を尻目に、イワンは「しばらく鰐の腹の中にいる」と言いだします。
セミョーンってお人好し…いやなことはいやだとはっきり言わなくてはね。
それにしても、あからさまな利己主義のぶつかり合い…ビックリしますよ。
『九通~』と『他人の妻~』は浮気に関するもの、『いまわしい話』と『鰐』は
官僚主義や似非人道主義をおちょくっているような内容です。
結局ユーモアってそういうものが題材になりやすい時代だったのかもしれませんね。
人が「面白い」と思うには、モデルになる人物がいるんじゃないでしょうか?
確固とした個人でなくて漠然としたタイプでもいいのですけれど。
情報があまり広くいき渡らなかった時代には、“ 寝とられ亭主 ” とか “ 成り上がり ”
“ 俗物 ” “ 腰巾着 ” など、分かりやすい笑われ者が必要だったのかもしれません。
それで「◯◯さんみたいじゃなくて?」って笑うのね。
とはいえ、ドストエフスキーにこういう一面があったと知って
なんだか嬉しくなりました。
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私はかなり作家に対する先入観が強い読者のひとりでして、そのせいで
読んでいない作家も多いのですよね。
「難しそう」とか「深刻そう」と思ったらもうアウトです。
ドストエフスキーに対して抱いていた印象は、貧困や共産主義に
鋭くメスを入れる社会派というようなもので最近まで敬遠していたのです。
同じような理由で手に取らない作家はたくさんいるのですが、たまたま手にして
読んだ時に「お!」と思うことも多いですね。
なるべく先入観なしで読んでみようと思ってはいるのですけれど・・・
そういえば・・・若い頃太宰治に凝ったことがあるのです。
彼も少し病みがちで暗そうな印象がありますが、エッセイ系は
面白かったような気がします。また読み返してみましょう。
モームの『世界の十大小説』によると、ドストエフキーはなかなか波瀾万丈の
生活を送ったようで、特にお金や女性に対してはだらしなかったようですね?
現在の感覚から言えばお世辞にも社会派とは言えませんが、その経験が
彼の作品を生み出していたのだとしたら、奥様にはお気の毒だけれど
世の中には良いことだったのでしょうね?
ドストエフキーが妻に宛てた手紙の本が岩波文庫にあったような気がしますけれど
あれを読んだら彼のユーモリストな部分が見え隠れするのでしょうか?
今度見つけたら少し立ち読みしてみます。
まあそんなことはさておき、ドストエフスキーって意外と笑える作家だと思います。長編でも随所にそういう箇所があったはずです。マルメラードフのあまりの駄目っぷりなど。深刻な作家だという一般に流布している考えは古めかしくて、実は笑いの文学でもあるという認識が現代的である気がします。そういう流れの中で、この『鰐』という短編集が出されたのではないでしょうか。実際、ドストエフスキーの文学を「道化」や「カーニバル」という観点から読み解こうとする人たちがいますしね。