姑も嫁もパワフルで…
フリードリヒ3世妃 ヴィクトリア・フォン・サクス=コバーク=ゴータ
1840~1901/在位 1888
大英帝国女王ヴィクトリアの王女ヴィクトリアは、厳しい管理下で教育されました。
王太子アルバート(後のエドワード7世)は勉強が苦手とされていますが
ヴィクトリアは聡明で、5歳で読み書きができ、子守りからフランス語も学びました。
11歳の時、ロンドン博覧会を訪れていた王太子フリードリヒに出会い
お互いに恋心を抱いたようですね。
ヴィクトリアが14歳の時にフリードリヒがバルモラル城を訪れて求婚し
彼女も即OKしたそうです。
17歳の時に、ヴィクトリア女王の強い主張でセント・ジェームズ宮殿で挙式しました。
この結婚にはお互いの両親の大きな期待が込められていました。
まず、フリードリヒの母アウグスタは、ヴィクトリアが英国のリベラルな影響を
プロイセンにもたらしてくれると考えていたわけね。
また、ヴィクトリアの父サクス=コバーク=ゴータ公子アルバートは
ふたりの結婚でドイツ統一が実現できれば… と望んでいました。
ふたりはとても愛し合っていて、結婚生活は万々歳 と言いたいところですが
プロイセンでの生活はあまり愉快なものではなかったようです。
1861年、義父ヴィルヘルム4世がプロイセン王に即位します。
ヴィルヘルム4世はどちらかというと保守派で、ビスマルクも保守派、
急進的な自由主義は退けられていました。
フリードリヒとヴィクトリアのリベラルな考え方は受け入れられず
ふたりは孤立してしまいます。
また、皇太子ヴィルヘルム(後の2世)は英国的民主主義に基づいて教育され
リベラルな祖母アウグスタも目をかけていたというのに
なぜだかガチンガチンな権威主義者の家庭教師になついてしまいました。
長じるにつれてヴィクトリアとヴィルヘルムの親子関係はぎくしゃくしていきます。
次第にビスマルクに理解を示していくフリードリヒとヴィクトリアに
義母アウグスタもよそよそしくなり、特に嫁のヴィクトリアに対しては
「主義が無い」などと嘲るようになりました。
1871年、ビスマルクとフリードリヒの説得で父王がドイツ皇帝に即位し
フリードリヒが1888年に皇帝の座を継いで、フリードリヒ3世として即位しました。
ビスマルクは引き続き重用され、ドイツは大国間の危ういバランスの中で
平和的な政策を模索していました。
しかし、フリードリヒ3世が咽頭癌のため99日で亡くなります。
息子ヴィルヘルム2世が即位し、ドイツは次第に危険な道を歩みはじめました。
ヴィクトリアにしてみりゃあ、ビスマルクが退いて義母アウグスタは返り咲くし
嫁のアウグスタがさぁ、これまた上手くいかなくて…
ヴィクトリアは宮廷から退き、フランクフルトに近いクロンベルクに建てた
思い出の城に退きました。
皇太子妃時代にはベルリンに看護学校を建てたり、美術工芸のパトロンになって
産業芸術展を開催したりとアクティブに活動していたヴィクトリアですが
息子の代になってからは目立たずにいようと決心したようです。
まだ若いのに、惜しいことですよね。
ヴィクトリア女王は娘ヴィクトリアに3777通の手紙を送ったそうですが
娘からは4000通の手紙を母に送っています。
息子の統治下でのドイツを心配する内容が多かったそうです。
1899年、バルモラル城にヴィクトリア女王を訪問中、乳癌が見つかります。
すでに手遅れだったそうです。
苦痛による彼女の悲鳴がすごかったので、召使いや女中は他の棟に移ったそうですよ。
かわいそうに… モルヒネか何か、痛み止めはなかったんですかね?
1901年、母ヴィクトリア女王より7ヶ月早く、ヴィクトリアは亡くなりました。
夫フリードリヒ3世と夭逝した息子たちの側に葬られました。
繁栄を誇ったヴィクトリア女王の娘に生まれ、統一を果たしたドイツへと嫁いだ
華々しい経歴の女性でありながら、ひっそりと控えめな一生でした。
1914年には帝国主義を押し進めた息子フリードリヒ3世によって
ドイツは第一次世界大戦に参戦し、イギリスは敵国になります。
そんな両国の姿を目にすることがなくて、かえって幸せだったかもしれませんね。
(参考文献 鈴木晟氏『面白いほどよくわかる世界の王室』 Wkipedia英語版)
フリードリヒ3世妃 ヴィクトリア・フォン・サクス=コバーク=ゴータ
1840~1901/在位 1888
大英帝国女王ヴィクトリアの王女ヴィクトリアは、厳しい管理下で教育されました。
王太子アルバート(後のエドワード7世)は勉強が苦手とされていますが
ヴィクトリアは聡明で、5歳で読み書きができ、子守りからフランス語も学びました。
11歳の時、ロンドン博覧会を訪れていた王太子フリードリヒに出会い
お互いに恋心を抱いたようですね。
ヴィクトリアが14歳の時にフリードリヒがバルモラル城を訪れて求婚し
彼女も即OKしたそうです。
17歳の時に、ヴィクトリア女王の強い主張でセント・ジェームズ宮殿で挙式しました。
この結婚にはお互いの両親の大きな期待が込められていました。
まず、フリードリヒの母アウグスタは、ヴィクトリアが英国のリベラルな影響を
プロイセンにもたらしてくれると考えていたわけね。
また、ヴィクトリアの父サクス=コバーク=ゴータ公子アルバートは
ふたりの結婚でドイツ統一が実現できれば… と望んでいました。
ふたりはとても愛し合っていて、結婚生活は万々歳 と言いたいところですが
プロイセンでの生活はあまり愉快なものではなかったようです。
1861年、義父ヴィルヘルム4世がプロイセン王に即位します。
ヴィルヘルム4世はどちらかというと保守派で、ビスマルクも保守派、
急進的な自由主義は退けられていました。
フリードリヒとヴィクトリアのリベラルな考え方は受け入れられず
ふたりは孤立してしまいます。
また、皇太子ヴィルヘルム(後の2世)は英国的民主主義に基づいて教育され
リベラルな祖母アウグスタも目をかけていたというのに
なぜだかガチンガチンな権威主義者の家庭教師になついてしまいました。
長じるにつれてヴィクトリアとヴィルヘルムの親子関係はぎくしゃくしていきます。
次第にビスマルクに理解を示していくフリードリヒとヴィクトリアに
義母アウグスタもよそよそしくなり、特に嫁のヴィクトリアに対しては
「主義が無い」などと嘲るようになりました。
1871年、ビスマルクとフリードリヒの説得で父王がドイツ皇帝に即位し
フリードリヒが1888年に皇帝の座を継いで、フリードリヒ3世として即位しました。
ビスマルクは引き続き重用され、ドイツは大国間の危ういバランスの中で
平和的な政策を模索していました。
しかし、フリードリヒ3世が咽頭癌のため99日で亡くなります。
息子ヴィルヘルム2世が即位し、ドイツは次第に危険な道を歩みはじめました。
ヴィクトリアにしてみりゃあ、ビスマルクが退いて義母アウグスタは返り咲くし
嫁のアウグスタがさぁ、これまた上手くいかなくて…
ヴィクトリアは宮廷から退き、フランクフルトに近いクロンベルクに建てた
思い出の城に退きました。
皇太子妃時代にはベルリンに看護学校を建てたり、美術工芸のパトロンになって
産業芸術展を開催したりとアクティブに活動していたヴィクトリアですが
息子の代になってからは目立たずにいようと決心したようです。
まだ若いのに、惜しいことですよね。
ヴィクトリア女王は娘ヴィクトリアに3777通の手紙を送ったそうですが
娘からは4000通の手紙を母に送っています。
息子の統治下でのドイツを心配する内容が多かったそうです。
1899年、バルモラル城にヴィクトリア女王を訪問中、乳癌が見つかります。
すでに手遅れだったそうです。
苦痛による彼女の悲鳴がすごかったので、召使いや女中は他の棟に移ったそうですよ。
かわいそうに… モルヒネか何か、痛み止めはなかったんですかね?
1901年、母ヴィクトリア女王より7ヶ月早く、ヴィクトリアは亡くなりました。
夫フリードリヒ3世と夭逝した息子たちの側に葬られました。
繁栄を誇ったヴィクトリア女王の娘に生まれ、統一を果たしたドイツへと嫁いだ
華々しい経歴の女性でありながら、ひっそりと控えめな一生でした。
1914年には帝国主義を押し進めた息子フリードリヒ3世によって
ドイツは第一次世界大戦に参戦し、イギリスは敵国になります。
そんな両国の姿を目にすることがなくて、かえって幸せだったかもしれませんね。
(参考文献 鈴木晟氏『面白いほどよくわかる世界の王室』 Wkipedia英語版)