まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

フランス王ルイ14世愛妾 アンヌ・マリー

2010-04-12 22:25:28 | 王の寵姫・愛妾
恋愛大王の心の恋人
アンヌ・マリー・マンチーニ


1639~1715/愛妾 1650以降~1661以前

デンマーク王妃シリーズ(長かったですね… )も終了して
次回の王室シリーズにいく前に、恒例の愛妾シリーズです。
“ 愛妾といえばフランス王室 ” という本命の中から、今回はルイ14世でいこうと思います。

マリーはローマで生まれましたが、11歳の時に父のマンチーニ男爵ロレンツォが亡くなり
兄の枢機卿マザランを頼った母ジローラマに連れられてパリに移りました。

マザランは姪にあたる5人の娘たちの美しさを最大限に利用しようと考え
後に次々と有力な家庭へ嫁がせました。

また、姉のオランプはマリー同様ルイ14世の愛妾になり
オルタンスはイングランド王チャールズ2世の愛妾になりました。

        

ただ、マリーが愛妾と言えるのかどうか…?
ルイは一時期真剣に愛したみたいですけどね。

宮廷にデビューしたマリーは、褐色の肌と陽気さ、そして美しさで人々を魅了し
ついには若き王ルイ14世の心をつかみます。
しかし、ルイにしては珍しくプラトニックなお付き合いにとどまっていました…
とはいっても、最後まではいかなかった、という意味ですね
ルイは真剣にマリーと結婚しようと考えていました。

ジローラマは占い師から、マリーが災難に巻き込まれて死に至るというお告げを聞いて
早速マザランにマリーを修道院に入れたいと訴えました。

この結婚には当然反対の母后アンヌ・ドートリッシュとマザランは
ルイとマリーの仲を割き、ルイとマリー・テレーズの縁談を急いでまとめました。

ルイから引き離されたマリーは
1661年にイタリアのロレンツォ・コロンナに嫁ぐことになりました。
ロレンツォはマリーとルイの噂を知っていたみたいで
初夜でマリーがバージンだったことを知るとビックリしたそうです。

              
               可愛いからもう一枚のせちゃうわ

1665年に3人目の子供が生まれたあたりから、ふたりの夫婦仲は悪化します。
1672年には「夫に殺される!」と言ってマリーが城を逃げ出し
その後は二度と会うことはありませんでした。

逃げたマリーは妹のオルタンスのもとに身を寄せて
1677年に回想録を書いたそうです。
何のことを書いたのかしら、ルイのこと? 夫のこと?

思えばオルタンスも夫の元を逃げ出したりしているわけだし
姉オランプも波瀾万丈だし、姉妹のことを書けばかなりセンセーショナルな本になりますね。

夫が亡くなった1689年以降にイタリアに戻り、1715年にピサで亡くなりました。

もし、ルイ14世がマリーと結婚していたらどうだったでしょう?
その後の愛妾たちは登場しなかったのでしょうか?
たぶん、そんなことはないと思うがね

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント (2)
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『サキ短編集』まだまだあります!

2010-04-12 00:44:51 | イギリス・アイルランドの作家
SAKI  
サキ(ヘクター・ヒュー・マンロー)

以前紹介した『ザ・ベスト・オブ・サキ』は、全部で90篇弱ある中から
6篇だけピックアップしたんですが、他にもまだまだ面白い話があるので
新潮社版短編集からもう少しご紹介します。

『話上手』
独身の男が、汽車の車室で一緒になった子供たちは少しも黙っていません。
子供たちの伯母はお話をしてあげますが、静かにさせることはできません。
そこで独身男が一肌脱いでお話をしてあげます。

大人には不愉快な話かもしれなくても、子供たちはとっても静かになるんです。
不道徳な方が面白いということがありますからね… 困ったもんだ。

『ビザンチン風オムレツ』
自らは裕福でありながら、労働者の立場を訴える社会主義者のソフィは
ある晩シリアの大公を招いて晩餐会を開くことになりました。
しかし、直前になって召使いたちがストライキをすると言いだしました。

自分は富を謳歌しているのに労働者の味方ぶる女性が主人公というのが
この物語をものすごく痛快にしているわけなんですけどね。
果たして上流階級から好評を得ることはできたんでしょうか?

『親米家』
ボヘミアンたちが集まるオウル街の店では、ゲプハルトの絵は不評でした。
金が底をついたらしいゲプハルトは顔を見せなくなりました。
しかししばらくすると、明らかに羽振りが好くなった彼が現れます。
常連たちは競って彼の絵を買い求めます…安いうちに。

実はゲプハルトの羽振りの好さにはわけがあります。
芸術家気取りでカフェや料理屋にたむろする人々への、皮肉たっぷりなお話。

やっぱりサキは意地悪ですよね。
笑い者になる対象がハッキリしている話や、正直者がバカを見る話も
躊躇無く書いていらっしゃったみたいです。

人をひっかけておいてオチがない話も多々あります。
自分だったらモヤモヤする…最後には「ドッキリ!」の看板を出してくれないと…

当然上手くいくだろうということが上手くいかず
上手くいかなそう、ということは、もちろん上手くいかず…
大人の自嘲とほろ苦さが堪能できる一冊になっております。

さらに岩波文庫の『サキ傑作集』につづく…
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デンマーク王フレデリク9世妃 イングリッド

2010-04-12 00:37:59 | デンマーク王妃
新世紀の王妃
フレデリク9世妃 イングリッド・アフ・スヴェリエ


1910~2000/在位 1947~1972

イングリッドはスウェーデン王グスタフ6世の王女で
母マルグレート・コンノートは生後6ヶ月の時に亡くなりました。
3歳の時父がルイーズ・マウントバッテンと再婚しました。

実母は大英帝国女王ヴィクトリアの孫、継母は曾孫というわけで
イングリッドと英国王室には深い繋がりがありました。

        

1928年、イングリッドにまたいとこの英国王太子エドワード(後の8世)との
縁談が持ち上がりましたが、婚約には至りませんでした。
もしこの縁談が上手く運んでいたらシンプソン夫人との世紀の大恋愛は
なかったかもしれませんね。

1935年、やはりまたいとこにあたるフレデリクと結婚しました。
この結婚はおおいに注目を集め、メディアはうるさくつきまといました。
ダイアナ妃を思い出すなぁ…いつも人の輪ができていたもの。

イングリッドは責任感が強く真面目な一方で、スポーツ好きのアクティブな女性でした。
乗馬とテニスが得意で、運転免許も持っていたそうです。
当時としてはかなり珍しいんじゃない? しかも車で町まででかけたらしい。

また、ラジオにも度々出演して詩の朗読などをしたそうです。
なんて気さくな…

王太子妃だった時に、デンマークはナチスドイツの占領下に入りました。
父王クリスチャン10世、王妃アレクサンドリーネが国内に踏みとどまる中
イングリッドも自転車に乗ったり、ベビーカーを押して町中を闊歩しました。

スウェーデンの父グスタフ6世は、娘の行為をとても心配して
「少し控えめにね…」とアドバイスしましたがイングリッドは聞きませんでした。

国民はイングリッドを “ 静かなる革命のシンボル ” として絶賛したそうです。

1947年、フレデリク9世が即位して王妃になったイングリッドは
宮廷の古いしきたりを変えようと改革に乗り出します。
また、歴史を調べ上げて、グラステン城を古き良き時代の外観に改修しました。

第二次大戦後フレデリク9世は、憲法の改正を行っています。
これによって女性への王位継承が可能になりました。

それから工業の大幅な導入など国家をあげての大改革を行っています。
また、名高い福祉国家もこの頃に形成されています。
変革に用いるパワーというのは並大抵のものではありませんよね?
イングリッドのサポートはとても力になったのではないでしょうか。

1972年、フレデリク9世が亡くなった後も
娘マルグレーテ2世が不在の時には摂政を務めたりと国家に関わっていたイングリッドは
2000年に亡くなりました。

               
                 頼りになりそうなお顔立ち
                   務めを果たしてきた自信に満ちていますね


(参考文献 武田龍夫氏『物語北欧の歴史』 Wikipedia英語版)
コメント (2)
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