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まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

オラニエ公ウィレム1世妃 アンナ

2009-09-17 00:35:04 | オランダ王妃
またまた、領土持ってました
ウィレム1世妃 アンナ・ファン・サクセン


1544~1577/在位 1561~1577

ウィレム1世の2度目の結婚は1561年、相手はまたまたひとり娘で
ザクセン選帝候モーリッツの相続人アンナです。
最初の公妃アンナ・フォン・エフモントも財産持ちだが、さらにすごい相続人なのね。
不器量で愛嬌が無いという評判でしたが、そんなこと気にしません。

      

でもアンナは評判どおりの女性で、その上気が変わりやすく、憂鬱の差が激しく
暴力的で自滅的ですぐ絶望しちゃうネガティブ女性でした…ふぅ~
貴族にも庶民にも不人気で、ウィレムも早々にうんざりしてしまいます。

加えてこの時期のウィレム1世はスペインの圧政から逃れるために戦う毎日でした。
寂しくなってしまったのかしら? アンナは愛人をつくりました。
相手は弁護士ヤン・ルーベンス …
そう「パトラッシュ、僕見たんだよ」でお馴染み、ルーベンスのお父様でございます。

アンナは1570年に女の子を生みましたが、ウィレム1世は認知しませんでした。
なんでもアンナとルーベンスのことは調べ上げていたみたい…

ルーベンスは逮捕され、アンナは子供たちから遠ざけられました。
その後子供たちはアンナに会うことはありませんでした。
ルーベンスは後日釈放されたのですが、あれかしら?…せまられちゃってという
言い分が通ったのかしら? 逆にウィレムが同情しちゃったとか…

ベイルスタイン城に送られたアンナの振る舞いは狂気を増していきます。
幻覚に苦しむようになって暴力も倍増しました。
使用人がナイフなどを手元から遠ざけると、今度は使用人に体当たり!
たぶん、鎮静するために麻薬なんかを使ってたんじゃないでしょうかね?

ルーベンスとの娘クリスティーナは、ただ独りアンナと一緒にいましたが
安全のため連れ去られました。

ウィレム1世はアンナとの結婚を無効にすると宣言して
アンナはザクセンへ帰され、ドレスデンで余生を過ごしました。
33歳で亡くなりました。

生まれついての狂気なのか、結婚生活が作り上げた狂気なのか?
当時の王妃や公妃の人生では、なかなか判断が下しがたいですよね。
確かにムラ気な人ではあったみたいだけど、贅沢三昧、わがまま放題に育てば
そんなふうになっでも仕方ないんじゃないかしら?
ネグレクトか甘やかしすぎ… 王侯貴族の教育って両極端すぎますよね。

(参考文献 Wikipedia英語版)
コメント (2)
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オラニエ公ウィレム1世妃 アンナ

2009-09-16 00:23:52 | オランダ王妃
領土、持ってました
ウィレム1世妃 アンナ・ファン・エフモント


1533~1558/在位 1544~1558

オランダ、チューリップと風車が印象的なのどかそうな国ですが
やはりブルボン家、ハプスブルク家の熾烈な争いを免れなかった国のひとつです。
もともとはフランスの公領でしたが、紆余曲折の末ハプスブルク家の支配下に入ります。

ハプスブルク家の神聖ローマ帝国下にあったオラニエ公国とネーデルラントを引き継いで
オラニエ公となったのがナッソウ家のウィレムで現在のオランダ王室に繋がっています。

そんなわけで、王妃ではないけれどオラニエ公ウィレム1世妃アンナから始めてみますね。

ウィレム1世の父はそんなに大きな領土持ちではなかったのですが
叔父やいとこからオラニエ公国とネーデルラント領を譲られて
一躍大領主になりました。
そこでネーデルラントで貴族の教育をみっちり仕込まれることになります。

ウィレムがアンナと結婚したのは1551年、アンナはブレン伯マクシミリアンの女相続人で
どえらい領土を受け継ぐことになっていました。
この結婚でウィレムはエフモント卿とブレン伯の称号を手にします。

       

アンナは3人の子供を生んで25歳で亡くなりました。
ウィレム1世は彼女を含めて4回結婚しています。 つづく…

(参考文献 Wikipedia英語版)
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