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まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

スコットランド王ジェイムズ1世妃 ジョアン

2009-01-21 02:29:35 | スコットランド王妃・王女
からだをはって王を守ろうとした
ジェイムズ1世妃 ジョアン・ボーフォート


1404~1445/在位 1424~1437

ジェイムズ1世は、1406年に12歳で即位したものの
18年後の1424年までイングランドで囚われの身になったままでした。

とはいえ、なんだか不思議な関係のスコットランドとイングランドなわけで
ジェイムズ1世もかなり厚遇され、宮殿の催しや舞踏会などに参加して
囚われ生活をエンジョイしていたようです。

ジェイムズ1世は宮廷でジョアンを見初めて恋いこがれるようになりました。
なんとジョアンへの想いを『 王の献辞 』という詩にしたためています。
今で言うラブソングですかね こっぱずかしい~

ジョアンの祖父はエドワード3世の息子ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントで
イングランド王ヘンリー5世とは従妹にあたります。

      

相変わらずフランスと一進一退の戦いを続けていたイングランドは
スコットランドがフランス側につかぬよう
ジェイムズ1世をジョアンと結婚させて国に帰すことにしました。
かくして1424年、二人は結婚しスコットランドヘ向かいました。

ジェイムズ1世は、自分がいない間に好き放題やっていた貴族の一掃に乗り出します。
まず槍玉にあげられたのはオールバニー公ロバートから摂政を引き継いでいた息子で
ジェイムズ1世の従兄弟にあたるマードックでした。
マードックはジェイムズ1世の帰国交渉をイングランドと行っていた人物ですが
そんなこと知ったこっちゃない!とばかりに処刑します。

ジェイムズ1世は不正を許さず
公正で庶民の生活向上に努めた国民にとってはいい王様だった一方で
あまりにも強引な統治と貴族への厳しい処断などが不満を招き
1437年、とうとう叔父にあたるアサル伯らを中心とする不満貴族たちに
暗殺されてしまいます。

ジョアンはその時王と一緒にいて、刺客と王の間に立ちはだかり
王を守ろうとしたといいますが、王は目の前で殺され自らも怪我をおいます。
弱々しく思われる淑女たちですが、いざとなると勇ましいものですね

間もなくアサル伯らが捕えられると凄まじい拷問を与えたと言われていますが
どうなんでしょうね? こういう噂はけっこう中世時代には多いですけど。

             
            美人の誉れ高いジョアン・ボーフォートなんですが…

王の死から2年後、ジョアンはサー・ジェイムズ・ステュワートと再婚します。
名前こそ王と同じですが、彼は一介の騎士で、結婚はかなり身分違いでした。
“ ローンの黒騎士 ” と呼ばれてますから、英雄だったのかもしれません。

再婚から6年後の1437年に、幼い息子3人を残し亡くなりました。

(参考文献 森譲氏『スコットランド王室史話』 Wikipedia英語版)
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スコットランド王ロバート3世妃 アナベラ

2009-01-21 02:03:33 | スコットランド王妃・王女
放蕩息子に悩まされた
ロバート3世妃 アナベラ・ドゥラモンド


1650~1401/在位 1390~1401

ロバート2世の後を継いで王になったロバート3世は、父王の晩年には摂政をしていました。
しかし、母エリザベス・ミュアの結婚が正当でないとされる時期に生まれていたことと
摂政時代に重傷を負い身体が不自由になったことから、即位が危ぶまれたこともありました。

本名はジョンといいましたが、即位する際にロバートに改名しています。
そのため、度々摂政となって兄王を助けた弟のオールバニー公ロバートと
同名になってしまいました。

      

アナベラとは摂政時代の1367年に結婚しました。
彼女はデイヴィッド2世妃マーガレットの弟ジョンの娘にあたります。
ロバート(ジョン)は30歳、アナベラは16歳でした。
             
             ちょっとだけリアルなアナベラです

二男のデイヴィッドがどうしようもない不道徳者で(長男は早世)
いくら皇太子でも見過ごせなくなってきたことから
ロバート3世は弟のロバートに息子を預けることにします。
デイヴィッドはフォークランド城に軟禁されたのですが
アナベラはそのことがひびいたのか同年の10月に亡くなってしまいました。

翌年3月にデイヴィッドがフォークランドで変死します。
餓死という噂や毒殺説が流れましたが、結局は自然死で落ち着きました。

ロバート3世はというと、弟ロバートを疑いながらも強い態度に出れず
悶々とした日々を送りますが、三男ジェイムズを守らねば!と思い立ち
1406年にフランスへ留学させることにします。

ところがジェイムズも航海中病気になり、イングランドに上陸して
逮捕・監禁されてしましました。
ここでも弟ロバートがイングランドに密告したと疑われました。
ロバート3世はショックを受けたのか寝込んでしまい、3ヶ月後に亡くなります。

弟ロバートは不在の王に代わって、摂政として国を治めていくことになります。

(参考文献 森譲氏『スコットランド王室史話』 Wikipedia英語版)
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スコットランド王ロバート2世妃 エリザベス

2009-01-18 19:43:19 | スコットランド王妃・王女
               肖像画は王妃ユーフィミア・ドゥ・ロス

夫と二度結婚した妻
ロバート2世妃 エリザベス・ミュア


~1355/在位せず

デイヴィッド2世とエドワード・ベイリャルという二人の王がいながら
ほとんど国にいやしない という不思議な時代
摂政としてスコットランドを守りきったロバート・ステュワートは
二人の王に継嗣がいなかったことから、ロバート2世として55歳で即位します。

ロバート1世の孫にあたるロバートは、王位簒奪に出てもおかしくはないのですが
平和主義者なのかなんだか、王位を奪うことなく役職をこなしていました。

そんな摂政時代に結婚したのがエリザベスです。
もともとエリザベスは愛妾で、1336年に正式に結婚したのですが
その正当性を非難されたため、1347年に教皇の特免状を受けて再度結婚します。
これは、たぶん子供たちを正式な継嗣とするための措置だったろうと思います。

1355年に他界します。



子だくさんの王を支えた
ロバート2世妃 ユーフィミア・ドゥ・ロス


~1386/在位 1371~1386

エリザベスの死後再婚したユーフィミアの母はロバート1世の妹マティルダなので
ユーフィミアはロバート2世の叔母にあたります。
生年がはっきりしていないので分かりませんが、姉さん女房だったのでしょうか?

     

最初の夫はマリ伯ランダルフで、1346年に死別しています。
ユーフィミアはエリザベスの生前からロバート2世の愛妾だったようで
エリザベスが亡くなった年に再婚しました。

ユーフィミアは2男2女を生みますが、ロバート2世には前妻エリザベスとの間に
すでに9人の子供がいました。
また、ロバート2世はかなりの男前さんだったらしく、愛妾が数名いたようで
その間に生まれた庶子も8人、計21人の子だくさんでした。
もちろんユーフィミアが全ての子供の面倒を一人でみていたわけではないでしょうが
問題児も多く苦労したことでしょう。

王に先立つこと4年、1386年に亡くなりました。

(参考文献 森譲氏『スコットランド王室史話』 Wikipedia英語版)
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スコットランド王デイヴィッド2世妃 ジョアン

2009-01-18 19:43:04 | スコットランド王妃・王女
囚われの女王
デイヴィッド2世妃 ジョアン・オブ・イングランド


1321~1362/在位 1329~1332、1346~1362

イングランド王エドワード2世の娘ジョアンは
8歳の時、ノーサンプトン条約によって5歳のデイヴィッドと結婚します。

この結婚は、破竹の勢いでイングランドに勝ち進んでいたロバート1世の申し入れを
エドワード3世の摂政イザベル・オブ・フランスと愛人マーチ伯ロジャーが受け入れたもので
イングランド側では屈辱的な結婚として物議を醸しました。

       
結婚後ほどなくして、デイヴィッドは父王の死によりデイヴィッド2世として即位しますが
1年ほどで、親政にのりだしたイングランド王エドワード3世の巻き返しにあい
彼が推したエドワード・ベイリャルに王位を追われました。
6歳の王と9歳の王妃はフランスに逃れます。
ちゃんと訳が分かっていたのでしょうか? 「お泊まりだ!」なんてはしゃいだりして…

1339年にフランス王フィリップ6世の後押しを受けてスコットランドに戻り
1346年、イングランドから戻って来ないエドワード・ベイリャルに替わって復位します。
しかし同じ年にイングランドに攻め入って逮捕され
王妃ともどもロンドン塔に囚われの身になります。 忙しいですね

ジョアンは実の兄に囚われたことになりますね。
彼女は “ ジョアン・オブ・ザ・タワー ” と呼ばれます。

2人は厚遇されたらしく、一歩先行くイングランドでおもしろ可笑しく暮らしていたので
11年後にスコットランドに帰国すると「退屈だ」と言いだします。
デイヴィッド2世は、なんたることか! 1363年には自らロンドンに戻ってしまい
以後スコットランドには帰国しませんでした。

ジョアンは先立って戻っていたのか、1362年イングランドで亡くなり
ロンドンに埋葬されました。



離婚宣告と戦った王妃
デイヴィッド2世妃 マーガレット・ドゥラモンド


1340~1375/在位 1364~1370

マーガレットは最初にサー・ジョン・ロッジと結婚しますが
ジョアンを亡くしてやもめになったデイヴィッド2世の愛人になり
1年半後に正式な妻になりました。
しかし世継ぎが生まれなかったことから、1369年に離婚を宣言されてしまします。

ところがマーガレットは大人しく聞き入れるような女性ではありませんでした。
アヴィニヨンに出向き、教皇に離婚の無効を訴える決心をします。
これはうまくいかず、1370年に離婚されます。
王より4年長生きして亡くなりました。

ちなみに、マーガレットから4代数えた姪のマーガレット・ドゥラモンドは
スコットランド王ジェイムズ4世の愛妾になりました。

(参考文献 森譲氏『スコットランド王室史話』 Wikipedia英語版)
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スコットランド王ロバート1世妃 イザベル

2009-01-18 02:58:39 | スコットランド王妃・王女
1年あまりの結婚生活
ロバート1世妃 イザベル・オブ・マー


1277~1296/在位せず

ウィリアム1世の弟ハンティングダン伯デイヴィッドの玄孫にあたるロバートは
1906年、スコットランドがイングランドの支配にあい、10年ほど王が不在だった後
自ら宣言して王になりました。
もちろん、皆が賛同していたわけではなく、その後は戦いに明け暮れます。
          
しかし、最初の妻イザベルを娶ったのはそのずっと前で
王妃になったのは二人目の妻でした。

イザベルの父マー伯ドナルドはスコットランドの重臣のひとりで
早くからロバート即位を支持していました。
イザベルは18歳の時、キャリック伯だったロバートと結婚します。
イザベルの母ヘレンは、エドワード1世に滅ぼされたウェールズのプリンス
ルーリアン・ザ・グレイトの妹と言われています。

ロバートはイザベルの3歳年上で、ふたりはそれはラブラブだったそうですが
イザベルは、19歳で一人娘のマージョリーを生むと間もなく亡くなってしまいます。
たった1年あまりの結婚でしたが、この時代にあって相思相愛でいられたというのは
とても幸せなことだったかもしれないですね。



             

夫とともに戦地を転々とした王妃
ロバート1世妃 エリザベス・ドゥ・バラ


1289~1327/在位 1306~1327

イザベルを失った6年後の1902年、ロバートは再婚します。
ロバートは28歳、エリザベスは13歳でした。
再婚相手のエリザベスの父アルスター伯リチャードは、イングランド王エドワード1世の
親しい友人だったことから、ふたりはイングランド宮廷で出会ったと思われます。
(ロバートは、エドワード1世に進んで臣従していた時代がありました。
 その後反旗を翻したので変わり身が早いと言われるようになったのです)
            
1306年に王位を宣言した際、ロバート1世は自ら戴冠しましたが
さすがにうしろめたく思い、2日後エリザベスとともに戴冠を受けます。

即位後もイングランドとの戦いは延々と続き、エリザベスは1914年まで
ヨークシャー、バークシャー、エセックス、などイングランドの各地を
転々としています。

だからといって戦いを容認していたわけではなく、王やその追従者たちについて
「王様ごっこをしている」とクールに言い放っていたということです。

38歳で他界しますが、きっと忙しい一生だったのでしょうね?

 余談です
同じような肖像画に見えますけど・・・
王妃のドレスの模様は、生家の紋章になっております。

(参考文献 森譲氏『スコットランド王室史話』 Wikipedia英語版)
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スコットランド王ジョン・ベイリャル妃 イザベル

2009-01-18 02:30:19 | スコットランド王妃・王女
夫も息子もイングランドの操り人形
ジョン・ベイリャル妃 イザベル・ドゥ・ワーレン


1253~1292/在位せず

アレグザンダー3世によってスコットランドを追われたジョン・ベイリャルは
イングランドでヘンリー3世やエドワード1世に忠誠を尽くして重用されました。
しかし、その息子であるジョンをエドワード1世がスコットランド王に推したのは
ひとえにジョンが “ 御しやすい人物 ” だったからだようです。

      

イザベルの母アリスはイングランド王ヘンリー3世の義妹で
イザベル自身はエドワード1世の従妹にあたります。
ジョンが王位に就く前に亡くなりましたが、たぶん夫を説得するのに
一役かっていたのではないでしょうか?

しかしながら、ジョンだって男です!!
いつまでも操り人形でいるのはイヤだとばかりに、フランスと同盟を結んだりして
イングランドに反抗を試みますが、結局戦いに敗れ3年8ヶ月で廃位に追い込まれます。

ちなみに、ジョンが廃位された後、王不在のスコットランドに総督としてのり込み
スコットランド国民に弾圧を加えたのは
イザベルの父であるサリー伯ジョン・ドゥ・ワーレンでした。

ジョンとイザベルには王子が2人ありましたが、長男エドワードは内乱の最中
1332年に、イングランド王エドワード3世に推されてスコットランド王になります。

でも、やっぱりカエルの子は・・・ってことでしょうか?
3ヶ月でダグラス軍に敗れ、イングランドに逃亡します。
王位には1346年まで就いていましたが、以後スコットランドには戻りませんでした。

父子揃って・・・
イザベルも草葉の陰で情けなく思ったっことでしょう。

(参考文献 森譲氏『スコットランド王室史話』 Wikipedia英語版)
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スコットランド女王マーガレット

2009-01-12 16:40:26 | スコットランド王妃・王女
幼くしてはかなく散ったノルウェイの乙女
マーガレット・メイド・オブ・ノルウェイ


1283~1290/在位 1286~1290

アレグザンダー3世が継嗣の無いまま亡くなったことで
スコットランドの王位は娘のマーガレットとノルウェイ王エリク2世の娘である
マーガレットに継承されます。

     

アレグザンダー3世は1281年のマーガレットとエリク2世の婚姻に際し
自分に継嗣がいない場合は、マーガレットか、あるいは二人の子供に
スコットランド王位を継承するという条項を加えていました。
娘マーガレットは、子供を産んでからほどなくして死亡していたため
その娘のマーガレットに王位が継承されたわけです。

実は、アレグザンダー3世は、息子アレグザンダーと
フランドル伯ダンピエールの娘マーガレットとの婚姻でも
同じような条項を加えていたのですが、アレグザンダーは子供を残さず死亡しました。
ある意味、不幸中の幸いでした。

なにしろ、当時スコットランドには「我こそは!」と王位継承を名乗り出る者が
少なくとも13人はいたといいます。
アレグザンダー3世が生前に道筋をつけていたため、ある程度スムーズにことが運びましたが
それでなければ争いが起こっていたでしょう。
(事実マーガレットの死後スコットランドは内乱に突入します)

マーガレットは3歳で即位しますが、ノルウェイで養育されていました。
なにしろ3歳ですからねぇ・・・王になったっていっても何もできないし。

しかし、イングランド王エドワード1世は黙っていません。
なんとか王太子エドワード(後の2世)とマーガレットを結婚させようとせまります。
もちろん、後々スコットランドを併合するためです。
スコットランドはなんとか抵抗しますが、とうとう申し入れをのむことになり
マーガレットが7歳の時、ノルウェイから呼び寄せることにします。
到着後にはイングランド皇王太子エドワードと結婚することになっていました。

マーガレットは1290年ノルウェイを発って海路スコットランドに向かいましたが
船が大しけに遭い、オークニに到着した時には息絶えていたということです。

自分では望んでもいないのに、7歳で大人でも寝込むような難儀な海に乗り出し
命を落とさねばならないなんて、なんて哀れな人生でしょう。

下の絵は、マーガレットがオークニに到着したところを描いたものです。
タンカのようなものに載せられてぐったりしているのがマーガレットですね。
可哀想にもう息絶えているのかもしれません。

なお、マーガレットには船から落ちたという水死説もあり
10年後にノルウェイで「我こそはマーガレット」という女性が現れて処刑されています。

             

エドワード1世は賢王として知られていますし、愛妻家でもあったようですが
自国のためには血も涙もないですね!!(だから賢王なのかしら?)
せめてもう少し大きくなるまで待ってあげることはできなかったのでしょうか?

マーガレットが女王かどうかということについては論争があるようですが
彼女の死をもってアサル王家は終焉をむかえることになります。

(参考文献 森譲氏『スコットランド王室史話』 Wikipedia英語版)
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スコットランド王アレグザンダー3世妃 マーガレット

2009-01-11 23:51:10 | スコットランド王妃・王女
                アレグザンダ-3世の戴冠式です。
                        なんだか不気味です。


いじめにあった王妃
アレグザンダー3世妃 マーガレット・オブ・イングランド


1240~1275/在位 1251~1275

8歳で王位についたアレグザンダー3世は、10歳の時に11歳のマーガレットと結婚します。

妹ジョアンの夫だったアレグザンダー2世の再婚に危機感を持った
イングランド王ヘンリー3世は延々といいがかりをつけていました。
1249年に和解しますが、その時におしつけるようにして
娘マーガレットと幼い王を結婚させたのです。

     

これは完全にスコットランドを掌中に収めるための結婚で
ヘンリー3世はアレグザンダー3世をナイトに叙任し臣下扱いします。

マーガレットは大事にされたかというと、王宮で摂政ジョン・ベイリャル、及び
護衛官ロバート・ドゥ・ロスから執拗な嫌がらせを受けます。

ジョンはデイヴィッド1世の血筋であるデヴォグィラを妻にしており
ロバートはウィリアム1世の次女イザベルを母に持っていました。
自分たちも王位継承につながることから、高慢な態度に出ていたようです。

しかしアレグザンダー3世は15歳で親政を執るようになると
2人を王宮から追放して一応一件落着します。

ちゃんと分かっていてくれたのですね
(でも、幼王はなんだか摂政を嫌う傾向があって
 親政にのりだすと追放しちゃったり・・・というのは多いんですよね。
 やはりうるさい存在に思えるんでしょうか?)

マーガレットは2人の王子を生みますが、2人とも早世してしまいます。
35歳で他界しました。



後継者づくりの犠牲者
アレグザンダー3世妃 ヨランド・オブ・ドウリュウ


1563~1330/在位 1285~1286

王子、王妃を相次いで失ったアレグザンダー3世は
なんとか世継ぎを得ようと、43歳の時、22歳のヨランドと結婚します。

“ 子供を産む道具 ” 発言をして物議を醸した閣僚がいましたけど
結局、中世も今も男女の関係性はあまり変化してないってことでしょうか?
もちろん、先天的な理由もあるのでしょうけれど・・・

ヨランドはフランスのドウリュウ伯ロベール4世の娘ですが
イングランドはフランスとスコットランドの結びつきを気にしていたので
(両面から挟まれますからね)この結婚には警戒心を強めます。

ヨランドの家系は古くは(フランスの)カペー王家につながり
ロベール4世もルイ11世の子孫にあたります。

アレグザンダー3世は片時も王妃を放さなかったらしいのですが
子供に恵まれないまま1年後に事後で亡くなります。
しかし、片時も放さないって・・・うざったいですね

アレグザンダー3世の死の直後、ヨランドは妊娠していると思い込み
子供も生んだと言いますが、イングランドはこれを偽装妊娠と決めつけます。
(スコットランド側の立会人は王子を死産したと言っています)

6年後ヨランドはブリタニー公アーサーと再婚し、子供を6人産んで
1330年に亡くなりました。

(参考文献 森譲氏『スコットランド王室史話』 Wikipedia英語版)
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スコットランド王ウィリアム1世妃 アーマンガード

2009-01-10 21:08:42 | スコットランド王妃・王女
              マリー・ド・クーシーが生まれた城

これといってエピソードが無い・・
ウィリアム1世妃 アーマンガード・オブ・ボーモント


1170~1233/在位 1186~1214

夫のウィリアム1世は獅子王として有名なんですが、王妃のエピソードは
これと言ってないのです・・・

    

イングランド王ヘンリー1世の庶子コンスタンスが母親で
ヘンリー2世の義理の従妹というぐらいでしょうか・・・



母親に翻弄された
アレグザンダー2世妃 ジョアン・オブ・イングランド


1210~1238/在位 1221~1238

ジョアンは、母であるイザベル・オブ・アングレーム
イングランド王ジョンの再婚相手に選ばれたために婚約を破棄した代償として
母の婚約者だったヒュー・ル・ブルンと結婚することが決まっていました。
(ひどい話しだね
     
そのため小さな頃からヒューの館で育てられていたのですが、ジョン王が亡くなると
母のイザベルは、やっぱり自分がヒューと再婚することにします あーんぐり

そんなわけでイングランドに送り返されたジョアンには
アレグザンダー2世との結婚話がすぐに持ち上がり、11歳で23歳の若き王と結婚します。

アレグザンダ-2世は16歳で即位していましたが、賢王といわれ
ジョアンとの結婚も、ノーサンバランドの失地回復などの目論みがあったようです。

28歳の時に、病気で療養中のロンドンで死去しました。

当時の感覚から言えば、政略的な結婚はしかたがないと思いますが
母のイザベル、ひどくはないのかしら・・・
イングランドの時はロマンティックな再婚だと書いてしまいましたが
なんだか納得いかなくなったぞ!



前妻の兄を敵にまわす
アレグザンダー2世妃 マリー・ド・クーシー


1218~1285/在位 1239~1249

アレグザンダ-2世の二度目の妻マリーの父は強力な反イングランド派で
彼女との再婚は、最初の妻ジョアンの兄イングランド王ヘンリー3世を警戒させ
表立った争いはなかったものの、スコットランドとイングランドを敵対させます。

王の死後2年ほどして故郷に帰り、39歳の時に
フランスの執政官ジャン・ド・ブリエンヌと再婚しました。

(参考文献 森譲氏『スコットランド王室史話』 Wikipedia英語版)
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スコットランド王ダンカン2世妃 エセルリーダ

2009-01-03 00:03:48 | スコットランド王妃・王女
わたくし、見切り発車でスコットランド王家に手をつけたわけですが
王妃についての記録があまりにもなくて弱ってしまいました
芸術の立ち遅れからか、女性蔑視からなのか分かりませんが
肖像画もめっきり見当たらない始末・・・困り果てました。

ただ、相関図は複雑で面白いので、気を取りなして
かけあしで紹介してみようと思います。

同盟の証
ダンカン2世妃 エセルリーダ・オブ・ノーサンブリア


在位 1094

エセルリーダの父ノーサンブリア伯ゴズパトリックは、
一説にはマルカム2世の娘ベソックの夫だったクリナンの孫だといわれています。
あまり後ろ盾を持たずに王になったダンカン2世は同盟者を探しており
ノーサンブリア伯から、その証としてエセルリーダを娶っています。

    

生まれは不明、王より長生きをしていますが、いつ没したかも不明です。



義理の姪でもある妻
アレグザンダー1世妃 シビル・オブ・ノルマンディー


1092~1122/在位 1107~1122

美しかったといわれていますが、肖像画とかないんですよねぇ・・・
その噂はどこから?
アレグザンダー1世の妹マティルダを妻にしているイングランド王ヘンリー1世と
愛妾シビルとの間に生まれた娘で、15歳ぐらいで結婚したようです。
したがってアレグザンダー1世は、ヘンリー1世の義理の兄でありながら
義理の息子にもなりました。 ややこしいですね・・・

      



かなり領土を持っていたらしい
デイヴィッド1世妃 マティルダ・オブ・ハンティングダン


1074~1130/在位 1124~1130

マティルダはイングランド王ウィリアム1世の姪ジュディスの娘です。

       

この当時スコットランドはイングランドとの争いを繰り返しながらも
盛んに婚姻関係を結んでいます。
これは懐柔策なんでしょうか? それとも言いなりになっていたのでしょうか?

マティルダは16歳で最初の夫サイモン・ドゥ・リスと結婚しますが35歳で死別し
46歳で6歳年下のデイヴィッド1世と再婚しました。

彼女は父親からハンティングダン伯領とノーサンプタン伯領を譲り受けていて
かなりの領土持ちだったようです。

(参考文献 森譲氏『スコットランド王室史話』 Wikipedia英語版)
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スコットランド王マルカム3世妃 聖マーガレット

2008-12-14 23:01:32 | スコットランド王妃・王女
スコットランド王室唯一の聖人
マルカム3世妃 聖マーガレット・オブ・スコットランド


1045~1093/在位 1067~1093

マルカム3世の二人目の妃マーガレットは
サクソン王エドマンド・アイアンサイドの孫娘にあたり
兄はサクソン人のイングランド王継承者として一身に期待を集めていた
エドガー・アジリングでした。

       

ノルマン公ギョーム(ウィリアム1世)によるイングランド征服は拡大する一方で
マーガレットの母で、ハンガリー王イシュトヴァーン1世の娘アガサは子供たちを連れ
一旦故国へ亡命する決心をします。
ところが船が難破しスコットランド沖へ漂着してしまいます。
マルカム3世は王自らその救助にあたっていたのでした。
なんだか Destiny な感じです。

美しく知的で、しかもサクソン王の血を引く女性とあっては
見過ごすわけにはいきません。
イーンガボーグの死からはすでに3年たっています。
マルカム3世は即求婚し、即結婚しました。

一説によるとマーガレットはとてもシリアスな性格で
誰も彼女を笑わせることができなかったと言われています。
でも慈善心には富んでいたらしく、病院や施療院への見舞いにもでかけ
孤児たちや貧しい人への施しは毎日欠かさなかったといいます。
また、古い教会を修復し、王宮にはチャペルを建設、夜中のミサにも出席し
日曜日に教会へ通う習慣を広めました。

これらの慈愛に満ちた行いや教会への忠誠から
1250年、ローマ教皇によって聖人の列に加えられています。
スコットランド王室で聖人の列に加えられたのは彼女だけです。

              
               聖人のイメージのマーガレット

少女時代までをハンガリーですごしたマーガレットは、衣服、マナー、式典などに
大陸スタイルを取り入れ、公用語にラテン語を使用するように変えていきます。
王との間には8人の子供が生まれていますが、全てイングランド系の名前で
スコットランド名をつけませんでした。
王にはかなり影響力があったみたいですね( 密かにカカア天下か? )

              
                大陸スタイルの王と王妃

1093年11月3日、マルカム3世と長男エドワードが
イングランド侵攻の途上で殺害されました。
病床についていたマーガレットは、このことを息子エドマンドから聞かされると
重体に陥り、3日後の11月6日、息を引き取りました。

なお、マルカム3世の死後勝手に王位を宣言した弟ドナルド3世は
マルカム3世がイングランドかぶれになったのも王妃の仕業だとして
マーガレットの遺体を奪い、公開処刑(死んでるのに?)にしようとしますが
王妃の遺体は側近たちによって匿われ無事でした。
おちおち横たわってもいられないですね

(参考文献 森譲氏『スコットランド王室史話』 Wikipedia英語版
      HISTORIC-UK.com)
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スコットランド王マルカム3世妃 イーンガボーグ

2008-12-14 23:01:21 | スコットランド王妃・王女
海賊対策の結婚?
マルカム3世妃 イーンガボーグ・アネッソン


~1065/在位 1059~1065

イングランドは現女王エリザベス2世の母君、エリザベス王太后で一区切りつきましたので
スコットランドにいってみたいと思います。

839年、ケニス1世によって(一応)統一された国となった時から17代王マクベスまで
スコットランドには “ タニストリー ” という独特の母系継承のシステムがあって
王位継承は混乱を極めていました。
親兄弟親族一同入り乱れての抗争や暗殺が絶えず、王はめまぐるしく変わりました。
(だって200年くらいの間に17人ですからね!!)
そのためかどうか、王妃がいたのかいないのか? 王妃はだれなのか?
資料が無いので省きます。

やっと女性陣が顔を出すのは
ケニス3世の娘ベレデ(マクベスの妻になったグロッホの母)
マルカム2世の長女ベソック(ダンカン1世の母)
マルカム2世の次女ドナウダあたりからです。

そしてそのドナウダの息子ソーフィンの妃が
後にマルカム3世と再婚するイーンガボーグでした。

       

父王ダンカン1世が殺害された時、9歳だったマルカムはイングランドへ逃れ
23歳の時王位奪回を志してスコットランドに入ります。
彼はマクベスと、継子ルーラッハを殺害して即位しました。

即位から1年、マルカム3世はソーフィンの未亡人イーンガボーグと結婚します。

ノルウェー王家の血を引くハーランド伯フィン・アネッソンを父に持っており
スコットランド北端を治めるオークニ伯シーガードの息子ソーフィンの妃だった
イーンガボーグとの結婚は、海賊対策と思われます。
当時ブリテン島には、北欧からのヴァイキングが頻繁にやってきていました。
一時はイングランド王にデーン人(デンマーク)が君臨したほどです。

イーンガボーグは3人の男の子を残し、6年ほどの結婚生活の後亡くなりました。

 お詫びです
マルカム3世の肖像画の隣にいるのは、二人目の妻、聖マーガレットです。
どうしても肖像画が見つからなかったものですから・・・

(参考文献 森譲氏『スコットランド王室史話』)
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