今年は寒さの長い冬でしたのに桜の開花情報が早いようです。もう春と思っておりましたら、北海道は猛吹雪で大変です。瀬戸
内でも今日あたりは肌寒さが感じられます。三歩進んで二歩退くと云う状況のようです。油断出来ません。
庭の花を挿し花にと庭を探索していて辛夷の花が咲き始めているのが見えました。辛夷は枝も花も雅味があります。
越後(新潟)の中頸城郡板倉町と云う所に「こぶしの里」と呼ばれている史跡があって、若い頃に何度か訪ねたことがありま
す。
中頸城郡辺りは親鸞聖人のご内室「恵信尼」(えしんに)さまと関係の深い土地でありました。親鸞聖人のご家族が聖人60数
才の頃、20数年住まいされた常陸国稲田より京都へ帰られることになりました。その折、親鸞聖人は後継者とされていた善鸞さ
まと末娘の覚信尼さまをお連れになられて京都へ、恵信尼さまは他の4人のお子さまをお連れになられて越後へと向かわれたので
した。これは越後には恵信尼さまの生家三善家(九条家の代官)を頼られたのでしょう。このようなことからも、聖人の京都へ帰
られた目的は師法然上人よりお聞かせにあずかった浄土のみ教えをより完全な著作としておかなければならないと云う堅い決意と
使命感からであったと覗えます。事実、聖人のそれから90才でご往生になられるまでの約30年間は筆をもたれない日はなかっ
たであろうと思われるほど執筆に専念されています。
聖人が弘長2年、ご往生になられた後、覚信尼さまと越後の恵信尼さまとの間にお手紙が交わし続けられています。その恵信尼さ
まのお手紙が「恵信尼文書」として11通、本願寺に現存しております。そのお手紙の中に、「七尺の寿塔を建てる」ことや差し出し地
名「とひたのまき」などから綿密な考証が続けられた結果、板倉町のとある田圃のあぜ道に同寸法の鎌倉期の五輪があり、その辺
りが「比丘尼田」(びくにでん)と呼ばれて来たこと。五輪の側に一本の「辛夷」(こぶし)の古木があることなどから、この地
が恵信尼さまのお住まいの跡であろうと考証されたのでした。この「とひたのまき」の考証、調査を弛まずされた最初の人は板倉
町の郷土史家宮腰幸(みやこしみゆき)氏でした。40年位前、ここを訪ねた時この宮腰氏にお会いしお話を伺ったことでした。
もう何年も前に故人となっておられるに違いないのですが、甚々の敬意を表します。
今日その地は整備され、五輪塔を中心に礼拝施設、駐車場も設けられ、ゆかりの「辛夷」がいっぱい植えられて「こぶしの里」、
恵信尼さまの旧跡地、終焉の地として顕彰されています。
寺庭に「辛夷」が咲き始めると、まだまだ雪深いであろう越後の「とひたのまき」で御孫子の面倒を見ながら遠く京都に居られ
る御夫君親鸞聖人を支え続けられた恵信尼さまのことが偲ばれます。