親鸞聖人が終生「よき人」と慕われた法然聖人は支那の善導大師さまを「私の領解はひとえに善導大師に依っている」と申されていました。
善導大師は浄土教の教理の確かさも当然ながらそのお念仏信心のたゆとうな情緒
は日本浄土教に今も色濃くく内包されております。
その一つが大師撰述になる『六時礼讃』でしょう。六時とは昼間が晨朝、日中、日没の三時。夜が初夜、中夜、後夜の三時。合わせて六時になります。大師は六時それぞれに「礼讃偈」を作成になられ、六時に勤行が出来るようにされました。浄土真宗でも八代蓮如上人までは六時に礼讃がお勤めになられていたようです。
画像の軸は「日没礼讃偈」の無常偈で揮毫は明治時代の本願寺を島地黙雷師、大洲鉄然師らと新時代への改革を行った周防徳山徳応寺の赤松連城師によるものです。当山十一世慈朗住職の請いによって書かれたもののようです。
人間そうそうとして衆務をいとなみ、
年命の日夜に去ることを覚えず。
灯の風中にありて滅すること期しがたきがごとし。
忙々たる六道に定趣なし。いまだ解脱して苦海を出づることを得ず。
いかんが安然として恐懼(きょうく)せざらんや。
おのおの聞け。強健有力の時、
自策自励して常住を求めよ。
善導大師は浄土教の教理の確かさも当然ながらそのお念仏信心のたゆとうな情緒
は日本浄土教に今も色濃くく内包されております。
その一つが大師撰述になる『六時礼讃』でしょう。六時とは昼間が晨朝、日中、日没の三時。夜が初夜、中夜、後夜の三時。合わせて六時になります。大師は六時それぞれに「礼讃偈」を作成になられ、六時に勤行が出来るようにされました。浄土真宗でも八代蓮如上人までは六時に礼讃がお勤めになられていたようです。
画像の軸は「日没礼讃偈」の無常偈で揮毫は明治時代の本願寺を島地黙雷師、大洲鉄然師らと新時代への改革を行った周防徳山徳応寺の赤松連城師によるものです。当山十一世慈朗住職の請いによって書かれたもののようです。
人間そうそうとして衆務をいとなみ、
年命の日夜に去ることを覚えず。
灯の風中にありて滅すること期しがたきがごとし。
忙々たる六道に定趣なし。いまだ解脱して苦海を出づることを得ず。
いかんが安然として恐懼(きょうく)せざらんや。
おのおの聞け。強健有力の時、
自策自励して常住を求めよ。