”思想起・郷土口唱文学1”by 李碧華
台湾の李碧華は好きな歌手だ。湿度99パーセント、みたいな濡れそぼった歌声が透明な悲しみの糸を引いて静かに流れて行く。あの水彩画みたいな繊細な歌の世界が良い。
80年代末に彼女が発表したこのアルバム、ただ事ではない、みたいなタイトルだが、台湾に古くから伝わる大衆歌の集成、といった意味になるのだそうだ。
歌われている歌のどれもが、不思議な懐かしさに溢れている。よくある”チャカチャカチャッチャ・チャッチャッチャ~ン♪”みたいな中華のメロディは出てこない。むしろ、日本の懐メロ歌謡曲に通ずるようなニュアンスを持つ歌がほとんどである。とは言え、基本的なところでやはり異郷のメロディなのだなあと感じさせられもし、そのあたりが微妙である。
封入されている歌詞カードに印刷された台湾の風景写真も、秋の空の下の田園風景、夕日の中のイカ釣り船、交通信号の明かりが滲む夜の操車場といった、日本人である当方の感傷中枢に普通に働きかけてくるものばかりなんだが。
李碧華の歌声に誘われるままに、古い台湾の思い出を懐かしがってしまってかまわないような、そうでもないような。
そんな微妙なむずがゆさを心の隅に置きながら聴き進むと、なんだか異郷の見知らぬ街角で、どこからか流れ来る、嗅いだ事もないけれども奇妙な懐かしさを喚起する夕餉の匂いを感じ取りながら、行き先を見失って途方に暮れる迷子みたいな気持ちが芽生えてくる。
この通りをもう一つ曲がれば見慣れた風景に出会える、そう願って歩を進めるが、広がるのは見知らぬ街角の風景ばかり。
実際、台湾の文化に触れるたびに感ずるこの不思議な懐かしさはなんなのだ?つまりは、かって我が国がかの地を植民地支配していた、その時期に置き忘れた日本文化の残滓に、こちらの感性が微妙な反応をしているという仕組みなのだろうか。
収録作の中で一番気に入っているのが、台湾の南に位置する古都、台南市の一夜を歌った”南都夜曲”だ。ほのかな悲しみの漂う、そして、行ったこともない土地へのゆえの無い懐かしさに胸がいっぱいになる、そんな優しいメロディを持つ歌だ。
古い台南の街の通りに、どこからか人々が賑やかに笑いさざめく声が聞こえている。
琵琶が嫋々とかき鳴らされ、杯は酒で満たされる。そして、失われた恋に慟哭する人がいる。
孤独。孤独。人の生涯の真の伴侶は吹き抜ける風だけだ。
いつか行った事もないはずの台南の街に帰りたい。そして、逢った事もなかった懐かしい人たちに”再会”し、一緒に、初めて口にする思い出の酒に酔いしれていたい。
李碧華の歌声が喚起する南の古都への感傷に導かれるままに、いたこともない場所へ”帰郷”するシュールな夢に酔う、春の夜なのであった。