熊本熊的日常

日常生活についての雑記

長旅

2009年02月18日 | Weblog
ロンドンから船便で送った引越荷物が到着したとの連絡が運送会社から入った。通関に1週間ほどかかるそうなので、手元に届くのは来週後半である。この荷物をロンドンから送り出したときのことは1月7日付「撤収」に書いた。それから代金の支払などのことで運送会社とのやりとりがあったのだが、少なくとも1週間ほどは英国のどこかに留まっていたようなので、実際の航海は30日前後かかったということなのだろう。30日間の船旅というものを自分でもいつかしてみたいと思う。

過去において船旅と呼べるほどのことは経験したことがない。せいぜい青函連絡船で青森と函館の間を往復したとか、フェリーで那覇と久米島を往復したとか、ドーバーとオステンドを往復したという程度だ。正直なところ、これらの経験から自分のなかでの船に対する印象はすこぶる悪い。那覇から久米島へ行くときはひどい悪天候で、小さなフェリーは荒波に翻弄されているようだった。「翻弄」という言葉の意味が体感できる経験だった。ドーバーからオステンドへ渡ったときもひどかった。が、大きく揺れる船内の食堂で、それがあたりまえであるかのように立ち働く人たちや乗客の姿に、ある種の感動を覚えた。海なのだから荒れることもある、という当然のことを「そりゃそうだよな」と実感したものである。しかし、向かい合わせに席が配置されている船室で、少し離れたところに座って窓の外を眺めていた老婦人が、突然、向かいに座っていた老紳士に向かって嘔吐したときも、荒れた海での航海では船酔いすることもあるという自然の摂理を感じたものである。ちなみに、このとき吐いた夫人は狼狽していたが、吐かれた紳士は一応相手を気遣うふりをしながらも、あからさまに不愉快そうにしており、紳士たることの困難をも感じた。

好天に恵まれて静かに横たわる海を前にすれば、そこに憧憬を覚えるだろうし、荒れ狂う海を見れば恐怖を感じるだろう。どちらも同じ海である。同じ海が状況によってその姿を正反対にして見せる。なにもそのようなことは海だけではないだろう。人の心も同じだ。ある場面だけを見て、その人となりを判断するのは困難だし、ましてや上手く付き合うなどということは至難である。結局は、例えばロンドンから東京へ荷物を送る、というような個別具体的な課題をひとつひとつ解決しながら航海なり運送なりの技術やノウハウを磨くように、ひとつひとつの場面での関係性を構築しながら相手を知り、自分を知るようになるのだろう。生きていくのは長旅の積み重ねのようだ。