聖徳太子研究の最前線

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聖徳太子と後に呼ばれる人物以外はいなかった?: 原田実『トンデモ日本史の真相』

2010年12月07日 | 大山誠一「聖徳太子虚構説」への批判

【12月5日にアップした際、宋成徳氏の論文内容について、記憶頼りで「その民話は、『竹取物語』をモデルにし云々」と書きましたが、読み直したらもっと複雑であったため書き直し、ついでに他の部分も多少修正したものを再アップします。申し訳ありません】

 聖徳太子に関しては、早い時期から様々な伝承が生まれており、現代でも「トルコ系の遊牧民族の王が渡来して聖徳太子となった」といった類のトンデモ説が次々に生み出されています。

 ついこの間も、その遊牧民族の王は正確な地球儀に基づいて日本まで至ったのであって、王が用いた地球儀が今でも法隆寺に存在するという某氏の珍説を紹介したうえで、独自の新説として、法隆寺の五重塔は実は送電塔がモデルになっているなどと、時代錯誤のトンデモ説を大真面目に並べ立てた文章が、某国立大学の紀要に論文として掲載されたほどです。師茂樹さんの読書ブログ「もろ式:読書日記」(こちら)が取り上げ(その論文はPDFで公開されており、法隆寺の構造図と送電塔の写真が並んでいるところも載ってます……)、私も冗談コメントをつけておいたところ、関連するトンデモ説を擁護する人が反論してきたので驚きました。

 そのようなトンデモ説の一つとして、大山誠一氏の聖徳太子虚構説を、バッサリ切った本が出ています。

原田実『トンデモ日本史の真相:と学会的偽史学講義』
(文芸社、2007年、1500円)

です。

 トンデモ本を探し出してそのトンデモぶりを楽しむ「と学会」の会員である原田氏は、同書では、日本史に関する様々な珍説奇説を紹介すると同時に、それがいかにデタラメかを資料に基づいて示しており、楽しく読める一般向けの本になっています。問題の地球儀については、江戸時代半ばに西洋伝来の知識に基づいて作られたものであることを論証し、江戸期に法隆寺に奉納されたものと推測しています。

 その怪しげな古代地球儀説とセットにして、原田氏がトンデモ説として紹介しているのが、大山誠一氏の聖徳太子虚構説です。原田氏は、聖徳太子なる理想的人物は実在せず、史実として確実なのは、蘇我氏系の有力な王族であって、宮殿と氏寺を持っていた厩戸王という人物がいたということだけだとする大山説を紹介した後、大山氏の次の文章を引用しています。

「読者の皆さんは、たったこれだけかと驚くかもしれないが、実のところ、7世紀初頭頃の人物について、これだけ確認できるだけでも稀有なことなのである。生年や居所でさえ確認できる人物はほとんどいないのである。」(大山『<聖徳太子>の誕生』)

 これに対して、原田氏は次のように評しています。

「この記述から見る限り、7世紀初頭の状況は「聖徳太子はいなかった」というより、「聖徳太子(と後世呼ばれる人物)はいたがそれ以外はいたかいなかったかわからない」といった方が適切に思えてくる。」(164頁下段)

 至言ですね。短い言葉による大山説批判としては、これが一番でしょう。

 大山氏は、史実として分かっているのは上記の事柄だけとしていますが、「厩戸王」という呼称は現存史料には見えず、小倉豊文が戦後になって推測・提唱したものであることは、このブログの小倉豊文コーナーその他で詳しく書いておきました。
 
 「聖徳太子」や「厩戸皇子」は、確かに七世紀初め頃の表記ではないでしょうが、『日本書紀』だけに限っても、厩戸皇子、東宮聖徳、豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王、厩戸豊聡耳皇子、上宮厩戸豊聡耳太子、皇太子、厩戸豊聡耳命、上宮太子、上宮豊聡耳皇子、太子などの名で呼ばれています。さらに異なる呼び方をしている法隆寺系資料や伊予湯岡碑文は別に扱うとしても、確実に『日本書紀』以前のものとしては、『古事記』が上宮之厩戸豊聡耳命という非常に尊重した呼び方をしています。名前に関して、これだけ資料が残っている人物は上代にはいません。

 しかも、『日本書紀』の用明天皇元年正月条では、「豊耳聡」と「豊聡耳」という名を並んであげているのですから、『日本書紀』編纂以前に既に伝説化されていた様々な記録や言い伝え、それも複数の系統のものがあったと考える方が自然でしょう。むろん、すべてを史実と見ることはできませんし、『日本書紀』編纂者が創り出した呼称も混じっているでしょうが、当時としては異様な情報量の多さではないでしょうか。

 一方、蘇我蝦夷や入鹿は、『日本書紀』では悪役として描かれているのですから、後に称徳天皇が自分の意にそわない報告をした和気清麻呂に激怒して左遷させ、別部穢麻呂と改名させたように、『日本書紀』の編集者は、「えみし」と発音される名を「蝦夷(蕃族)」というおとしめた表記に変え、いかに悪逆な行為をしたかを誇張して描いている可能性があります。そうなると、大山流に言えば、「実在したのは、馬子の子として権勢をふるった某であって、蘇我蝦夷はいなかった」ということになるはずです。

 原田氏が、「聖徳太子(と後世呼ばれる人物)はいたがそれ以外はいたかいなかったかわからない」と言う方が適切ではないか、と評するのはもっともですね。『日本書紀』の最終編纂段階において、不比等と長屋王と道慈の三人で理想的な人物像をでっちあげたのなら、呼称はもっとすっきり統一され、登場する場所によって呼び方に偏りがある現在のような状態にはならなかったでしょう。

 原田氏は、大王家の一員が早い時期に仏教支持の立場を鮮明にし、氏寺まで建てるというのは、それなりの信念と実力がなければできない行為である以上、斑鳩寺を建立したというのは、「たったこれだけ」と片付けられる話ではない、と論じます。

 また、原田氏は、大山氏が聖徳太子と同様の架空人物としている頓知小僧の一休さんにしても、様々な逸話自体は後世になって作られたとはいえ、それは「一休の禅風から想像されたもので、実在の彼と無関係というわけではない」(164頁上段)としています。これに付け加えておくと、一休は反骨の禅僧であって、わざと話題になるような奇矯な振るまいをしていたことで有名な人物であり、実際の逸話だけでなく、一休の言動を大げさに語り伝えた話が、彼が生きていたうちから広まっていたうえ、他の人の逸話が一休の話として広まるようなこともあったようです。
 
 大山氏の説は、厩戸皇子の実在そのものを否定したり、厩戸皇子以外に聖徳太子のモデルを求めたりした従来の聖徳太子非実在論者に比べれば「穏当」だが、「そのため、かえって、この説の方法論的な矛盾をより露骨に示すようになった」(166頁上段)というのが、原田氏の結論です。

 なお、原田氏は、聖徳太子に関する記述には信用しがたいものが多いことは、戦後の歴史学界で繰り返し論じられてきたことにすぎず、大山氏が「聖徳太子は架空の人物」とまで言うのは、「学問上の議論というよりむしろレトリックの問題だろう」と評しています。これと同じ趣旨のことは、『聖徳太子の実像と幻像』でも何人かの研究者が指摘していましたね。

 確かに、大山氏の書くものには、そうしたレトリックが目立ちます。氏は、厩戸王という人物が斑鳩に宮と寺を建てたことを史実として認めるものの、

 「王族の居所を宮というのは『日本書紀』の筆法であり、氏寺の建立も『日本書紀』によると、推古天皇の時代には「寺四十六所」ということであるから、都の飛鳥から遠く離れていることもあり、たぐいまれな存在とまでは評価できない」(『<聖徳太子>と日本人』、角川ソフィア文庫、18頁)

と述べ、その意義をできるだけ小さくしようとします。つまり、宮といってもたいしたことはなく、寺にしても推古朝にあったとされる46寺中の一つにすぎない寺を都から遠く離れた地に建てた王族でしかないように描くのです。

 しかし、斑鳩は都と難波を結ぶ交通の要衝でしたし、発掘の結果、斑鳩宮はかなり広大なものであったことが分かっています。その斑鳩宮と隣接して建立された斑鳩寺、すなわち現在は若草伽藍跡となっている寺は、蘇我氏の飛鳥寺・豊浦寺に続き、その技術を用いて建てられた最初期の寺の一つ、それも壁画で飾られた堂々たる最新建築でした。四天王寺については不明な点が多いものの、厩戸皇子の没年頃には、斑鳩寺の塔の瓦を作るのに用いられた瓦当范そのものが難波の四天王寺創建時の瓦を作成するのに使われ始めています。大山氏の上記の表現は、まさにレトリックに満ちたものであり、フェアではないのです。

 なお、原田氏のこの楽しい本では、「かぐや姫」とそっくりな話である「斑竹姑娘」が中国四川省北西部のチベット族の民話として出版されていることから、「斑竹姑娘」は『竹取物語』の別伝、ないし原型だとする説についても紹介しています。氏は、以後、中日共同の現地調査がなされたにもかかわらず、そのような話が現地の民話として伝わっていたことは確認されていないことを重視します。つまり、その民話が収録された本が出版されたのは戦後のことであり、この時期には日本に留学した知識人がまだ多数いた以上、民話の採集者とされる田海燕が『竹取物語』を知っていたとしても不思議はないとするのです。

 原田氏は触れていませんが、実はこの問題については、日本留学中の中国人研究者によって原田氏の推測通りであったことが論証されています。

宋成徳「「竹公主」から「斑竹姑娘」へ」
(『京都大学国文学論叢』12号、2004年9月)

です。

 この論文によれば、日本に留学して早稲田で学び、復旦大学で西洋文学と日本文学を講義した謝六逸(1898-1945)が、『竹取物語』の梗概を載せた『日本文学史』を1929年に著します。謝の文学研究仲間であった鄭振鐸は、中国最初の児童文学雑誌を刊行して『竹取物語』を多少潤色した「竹公主」を掲載し、後に「竹公主」を含め、諸国の童話を訳したり潤色したりした本を出版します。そして、田海燕がチベット族の民話を採集して整理したものと称する「斑竹姑娘」は、『竹取物語』でなく、この「竹公主」に基づいて書かれていた、とのことです。

【追記 2010年12月7日】
なお、原田氏の解説のうち、三経義疏に関する記述は間違いだらけです。「『維摩経疏』は6世紀前半の中国における注釈書のほぼ丸写しである。また、『法華経疏』『勝鬘経疏』についてもそれぞれ、6世紀前半の中国での注釈書で、内容の7割までが一致するものが見つかっている」(162頁上段)とありますが、そもそも書名表記が不適切ですし、『維摩経義疏』については、種本の存在は推測されているものの見つかっていません。また、中国の注釈と内容が7割ほど一致するのは『勝鬘経義疏』だけであって、『法華義疏』の場合は「本義」と称している法雲の『法華義記』に基づいて書かれているものの、7割が一致とまでは言えません。大山氏の『<聖徳太子>の誕生』などは、藤枝説に頼って三経義疏は中国撰述と述べる際、また別な誤りを記していますが、上記のようなことは書いてません。