聖徳太子研究の最前線

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「蓑田狂気」と呼ばれた蓑田胸喜の思想史的位置

2010年11月23日 | 津田左右吉を攻撃した聖徳太子礼讃者たち
 津田左右吉攻撃といえば、その代表は津田が「憲法十七条」や三経義疏の聖徳太子製作を疑うなど『日本書紀』に対して文献批判的研究を行なったことに激高し、不敬罪で告発して裁判にまでもっていった原理日本社の蓑田胸喜(1894-1946)です。

 蓑田たちの津田攻撃については、「津田左右吉を攻撃した超国家主義的な聖徳太子礼讃者たち」において大山説批判とからめて簡単に紹介しておきましたが、昭和思想史における蓑田の位置づけに関するわかりやすい解説が出ました。

植村和秀『昭和の思想』
(講談社選書メチエ483、講談社、2010年11月、1500円)

です。

 既に『「日本」への問いをめぐる闘争--京都学派と原理日本社』(柏書房、2007年)という研究書を著している植村さんは、昭和の思想を論じるには「右翼」対「左翼」といった図式では不十分であるとし、次のような構図を想定します。

             西田幾多郎
                /
    丸山真男 --------- 平泉澄
              /
            蓑田胸喜

 横は「理の軸」であって、政治志向で論理的な人たちです。縦は「気の軸」であって、根源を求め仏教に親和的であり、近代的でない面を持ち、戦略的な政治行動などは不向きとします。

 つまり、左翼知識人の代表のように思われがちな法学部の丸山と、皇国史観を構築して大きな影響を与えた国史学の平泉は、西洋の学問に基づく近代的で明晰な思考法や政治主体を重視する行動様式が似ており、一方、西田やその門下たちにも攻撃の刃を向けていた蓑田は、実際には西田と同様に「東アジア的」であって共通する面があるとするのです。

 縦の軸では、西田がいる上部が創造的、蓑田のいる下部は否定的とされます。西田は苦闘しつつ東西を統合した新たな思想を生み出そうとしますが、聖徳太子と親鸞を礼讃しつつ「原理日本」を絶叫する蓑田は、激しい表現を用いた攻撃文書をまき散らし、軍部や貴族院などにまで働きかけて狙った相手を大学から追放するなど、異様なエネルギーで活動したものの、ひたすら罵詈讒謗を加えるばかりであって、長期にわたる見通しや冷静な戦略などはないのです。これは、西田が社会に関心を持ちつつも、思弁的すぎたため、政治に対して現実的な働きかけができなかったのと同様とされます。

 植村さんは、国体に反すると思われた教授達を猛烈に攻撃しまくった蓑田について、その旧友であった細川隆元の思い出を紹介しています。新聞記者であった細川が、「では一体政治や経済を何うすればよいのか」と尋ねると、蓑田は「叩くんだ、ただ叩くんだ。悪いものを叩けば必ずいいものほんたうのものが生まれるにきまっている」と答え、具体的な政治状況について話そうとすると、蓑田は「そんな実際政治の内幕などどうでもいいですよ、原理日本に徹しなければ何事も駄目ですネ。みんな馬鹿許[ばか]りですよ。だから僕は悪いものを叩くんです」と言うのみだったそうです。

 こうしたほとんど宗教的な思考法は、今でも一部の人たちに見られますが、これだと全面否定か全面肯定しかありえませんので、このような人たちは虚々実々の粘り強い駆け引きを必要とする外交などには向きませんし、聖徳太子関連の個々の記述や文物について、是々非々で厳密に検討するのも無理ですね。実際、蓑田は聖徳太子については、仲間である井上右近や黒上正一郎などの礼讃解釈を感激して引くばかりで、自分独自の解釈はありませんでした。