聖徳太子研究の最前線

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「天寿国繍帳」に見える弥勒経典の図柄と太子の名の配置: 三田覚之「天寿国繍帳の原形と主題について」

2010年11月11日 | 論文・研究書紹介
 天寿国繍帳については、美術史に限っても、大橋一章先生を代表とする膨大な研究の蓄積があり、また刺繍の技法に関する澤田むつ代氏の詳細な研究がありますが、この方面で最近きわめて優れた成果をあげたのが、三田覚之(みた・かくゆき)氏の以下の論考です。

三田覚之「技法から見た天寿国繍帳」(『フィロカリア』25号、2008年3月)
同     「天寿国繍帳の原形と主題について」(『美術史』164号、2008年3月)

 前者では、拡大写真を活用することにより、技法と修理状況をこれまで以上に明らかにし、現在は寄せ集めにされている断片が本来はそれぞれどのような方向を向き、全体のどのあたりにあったのかを推定しています。そうした作業のうち、石田茂作が「佛是眞玩」の四字と推測した亀甲断片は、実際には銘文冒頭の「斯帰斯麻」の四字であろうとしていますが、実物を扱う研究というのはこうしたことがあるので恐いですね。

 後者の論文は、図柄と刺繍の形態を検討して繍帳の復元を試みたものであり、画期的と呼ぶべき論考です。まず、古記録によれば、繍帳を実見した人々が天寿国の情景について述べる際は「四重宮殿」を筆頭にあげることが多いため、これこそが繍帳の中心部に配置され、最も目立った重要な図像であったとします。

 そして、繍帳の外区は聖徳太子の伝記を表しているとする説を退け、外区は内区に付属するものである以上、浄土信仰関連の経典に基づくとし、腰の曲がった二人の老人が杖をついて歩む姿に着目します。これは、敦煌の「弥勒下生経変白描粉本」中のよく似た図が示すように、弥勒菩薩が如来となって現れる世には、人々は寿命が非常に長く、その寿命が尽きそうになると人々は自然に山林の墓場に行って安らかに亡くなる(そして生天する)、と記す弥勒経典に基づくとするのです。

 また、宮殿については、隋代以降に見られる中国の弥勒の変相図では、弥勒は常に兜率天宮の中に描かれており、野外の蓮華の上に描かれる阿弥陀仏とは異なるとし、その兜率の天宮が繍帳の中心に描かれていたと推測します。

 ほかにもいくつも興味深い指摘がありますが、特に重要なのは、銘文を4字づつ記した100箇の亀甲の配置に関する新説です。繍帳は二張あったことが記録から知られているものの、聖徳太子の名である「等已刀弥弥乃弥己等(とよとみみのみこと)」という部分は、復元本文によれば、亀甲の49箇目から51箇目に相当します(同論文が「五二箇目」とするのは単純ミスでしょう)。そうなると、100箇の亀甲を2等分してそれぞれの画面に50箇づつ配置したら、肝心な太子の名が中央で切れてしまうことになります。

 そこで、三田氏は、繍帳の正面部分について、以下のような亀甲配置を想定します。

  F D | □ A
  G E | C B
  H   :    □
  □   :    □   : は開閉する部分

 つまり、A「……孔部」、B「間人公主」、C「等已刀弥(とよとみ)」、D「々乃弥己(みのみこ)」、E「等娶尾治(と、尾治~をめとり)」、F「大王之女」、G「名多至波(名はたちば)」、H「奈大女郎(な[の]おおいらつめ)」となっており、繍帳正面に聖徳太子の母后である孔部間人公主、豊聡耳皇子(聖徳太子)、橘大女郎の父の尾治生(銘文では「大王[おおきみ]」と尊称)、太子妃の橘大女郎、という四人の名が並んでいたと見るのです。

 これだと、間人皇后、豊聡耳皇子、橘大女郎の名については、皇子を中心として、

      子    母
  橘  □ 太  后
  妃

という、ほぼ対称形に近い綺麗な配置になっていたことになりますね。三田氏は、こうした「母后・太子・太子妃」という三人の強調は、妃の名は異なるものの、母后と太子と膳妃の三人の往生を願う釈迦三尊像銘と同じであることに注意しています。 また、中国の法門寺の白玉霊帳などを例にあげ、この繍帳は仏像を囲うものであったとし、太子の名は繍帳を開いても閉じても、繍帳の正面に位置するように配置されていたと推測します。

 三田氏は慎重であって、繍帳の成立年代については語っていませんが、大橋先生の研究によれば、図柄と亀甲の位置は一体のものとしてデザインされていたと推測されており、また澤田氏の研究では、繍帳の技法は奈良の盛期の刺繍とは異なる素朴なものであることが明らかになっています。美術史側の研究は、「天寿国繍帳」は平安初期から11世紀中頃以前の作とする吉田一彦さんや、繍帳の外区の図様は太子の伝記を鎌倉時代につけ加えた可能性があると説く野見山由佳氏などの後代成立説とぶつかりますので、次回はそうした後代成立説を紹介しましょう。