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蘇我氏と物部氏の対立は外交権独占争いか:笹川進次郎「ヤマト倭王権による危機管理体制とミヤケ支配」

2022年11月06日 | 論文・研究書紹介

 『日本書紀』が崇仏・排仏派の対立として描いている蘇我氏の物部氏の争いについては、様々な説が提示されてきました。そうした中で、最近になって登場したのが、

笹川進次郎「ヤマト倭王権による危機管理体制とミヤケ支配ー蘇我・物部憂世力の対立と難波津のミヤケー」
(山尾幸久編『古代日本の民族・国家・思想』、塙書房、2021年)

です。

 笹川氏は学説史を概説し、教科書風には「大和朝廷の地域への権力支配の中で配置された直轄領地」とされてきたが、館野和己氏は漢字の意味を重視し、政治的軍事的拠点説を唱えたと紹介します。

 そして、統一的外交権の確立過程の中で、地域首長たちのヤケ機能を統括する統監ミヤケ体制が成立し、さらに国ミヤケの権力中枢として軍事的屯倉が置かれたとする自説を展開します。

 つまり、御宅→官家→屯倉、という展開を説くのであって、その際、地域の首長と大和王権の間だけでなく、大和王権内部の抗争も生ずるとしており、視点は面白いのですが、文章が硬くて理解しにくいですね。

 ここでは、聖徳太子に関連する部分をとりあげます。それは、蘇我・物部の争いを、外交拠点であった難波津をめぐる抗争と見る点です。倭王権は、諸氏族に代わり、難波津の改修・拡大によって国家的外交権の拡充を進めたとします。当時の難波津の館・宅は中河内の物部氏の勢力下にあったが、それを飛鳥勢力による「官家」としてミヤケ制下に編成されていったと見るのです。

 この地で外交の実務を担当した崇仏派の渡来氏族は、蘇我氏のもとで難波津大津での外務担当官人となっていったと推測します。難波津に館を持っていた物部氏は、旧大和側のウヂの本拠である八尾地域から交通拠点を管理していました。

 このため、馬子・厩戸の勢力はこれと対峙するようになっており、だからこそ、戦闘になった際は、守屋の資人である捕鳥部万が百人をひきいて守屋の難波宅を守ったとします。

 また、『上宮聖徳太子伝補闕記』『聖徳太子伝記』では、四天王寺は元々は玉造東岸にあったとし、守屋の田荘・奴を基にして建立されたと記していることも、以前はこれらの地が物部氏の勢力下にあり、湾岸交通や外交権を分掌管理していたことが知られるとします。

 物部氏については守旧的であり、渡来系氏族を活用した先進的な蘇我氏との対立という図式が語られるのですが、笹川氏は、物部氏も難波やそこから続く地の渡来系氏族を利用しており、その占有を争って物部・蘇我の抗争が起きたと見るのです。

 その前の段階から、地方の首長が持っていた交通・外交権を飛鳥勢力の元に統括しようとする動きがなされていたわけですが、そうした強権的な政策への反発の典型が、筑紫君磐井の乱であったと笹川氏は説きます。

 この地の津、河川の交通、また馬を活用した交通がいかに重要であったかについて、笹川氏は河内国分(河内アスカ=安宿)の馬や船を描いた線刻画が良く示しているとします。

 そして、河内におけるこうした動きとミヤケ設定は、ツクシ・キビなどの外交拠点とその経路でも同時進行しており、難波大津・吉備児島津・筑紫那大津という三大津での統一的儀礼外交が、ヤマト国家としての事業として渡来系集団を実務官僚とした蘇我アスカ勢力によって推進され、ヤマト国家が形成された、というのが笹川氏の大きな見通しです。

 となると、笹川氏によれば、斑鳩から八尾のあたり、また難波を押さえて寺を建てた厩戸皇子は、そうした蘇我氏の手兵のような役割を果たしたことになりますね。

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