聖徳太子研究の最前線

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津田左右吉を批判した旧式の英語学者:松田福松

2010年07月29日 | 津田左右吉を攻撃した聖徳太子礼讃者たち
 超国家主義の親鸞讃仰・聖徳太子礼讃者たちの集まりである原理日本社が、本格的に津田左右吉攻撃を始めたのは、昭和14年(1939)3月刊行の『原理日本』第15巻第3号が最初です。この号には、松田福松の「津田左右吉氏の東洋抹殺論批判(上)」が掲載され、4月刊行の次号に同「津田左右吉氏の東洋抹殺論批判(下)」が掲載されました。松田は3月号では、この批判論文に続けて「谷崎源氏の反戦的亡国意識」という批判論文も書いてます。

 この松田福松という人物は、旧式な英語学者であって、リンカーンやホイットマンに傾倒していた人物です。早くから蓑田胸喜と意気投合して原理日本社の創設メンバーとなり、昭和十年代に入ってからは、大学のあり方をめぐって激しい批判活動を繰り広げていました。

 リンカーンやホイットマンを敬愛する英語学者がなぜ英米批判の超国家主義者になったかは、福間良明「英語学の日本主義--松田福松の戦前と戦後--」(竹内洋・佐藤卓己編『日本主義敵教養の時代--大学批判の古層--』、柏書房、2006年)が概説しています。すなわち、有色人種に対する差別に憤っていた松田は、リンカーンとホイットマンが奴隷制度に反対であった点を評価する一方、現在のアメリカは「白人優越の幻想」に基づいて、東洋を侵略するようになってしまったとし、リンカーンらの精神は東洋保護に乗り出した皇国日本に保持されている、と考えるようになったのです。松田は、上記の福間論文によれば、『米英研究』(原理日本社、1942年)で次のように述べています。

 皇威の光被して草木をも靡かすところ、リンカン、ホイツトマンの精魂もまた耀やき天翔りつゝ御前に事[つか]へまつり無窮の皇運を扶翼しまつるであらう。

 つまり、どこであれ天皇の威光が輝くところであれば、リンカーンやホイットマンの魂もまたそこで輝くのであり、二人の魂はアメリカの地から遠く天皇のお側にまで天翔ってお仕えし、無窮なる天皇の偉大な活動をお助けするだろう、というのです。

 こうした人物が、インドと中国と日本は、それぞれの文化に基づく国であったのだから共通した「東洋文化」などというものは無く、現代日本は西洋文化の側だ、と説く津田の『支那思想と日本』(岩波新書、1938年)を読めば、東洋文化を体現してアジア諸国を救おうとする皇国日本の活動を否定する危険思想だ、と受け止めるのは当然でしょう。

 ただ、興味深いのは、この時点では、松田は津田の「憲法十七条」偽作論や三経義疏作成否定論を知らなかったらしいことです。松田は、最初の論文において、日本は初めは中国文化を学ぶばかりで取捨を加えることもできず、拝跪するばかりであったとする津田説に触れ、「聖徳太子の十七条憲法及び三経義疏をとつて考へ見よ」(34頁)と反発していますが、聖徳太子に関する議論は、それで終わっています。しかし、津田の「憲法十七条」偽作論や三経義疏作成否定論は、昭和5年(1930)に岩波書店から刊行された『日本上代史研究』で明確に述べられていました。松田がそれを読んでいたら、もっと激しい反論がなされたでしょう。

 蓑田の筆によるこの号の編集後記でも、松田論文については、津田の「合理主義的唯物論的思想法の根本的欠陥」を指摘していると述べて津田説を批判し、「支那印度の勝れた精神的伝統『東亜一体感』は日本人の内心にのみ生きてをる」ことを強調するのみです。蓑田や松田が津田の著作を読むようになったのは、津田が10月に東大法学部に新設された東洋政治思想史講座に講師として招かれ、また11月に小野清一郎の津田批判が『中央公論』に掲載されてからのようです。

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