先日、少し前の聖徳太子関係の論文を読んでいたら、全般に『日本書紀』の記述を疑う傾向が強く、法隆寺の再建非再建論争もまだ決着したわけではないとして、ある論文に触れていました。
若草伽藍が焼けたことは確実であるものの、再建された西院伽藍の五重塔の心柱が飛鳥寺建立と同じ頃に伐採されていたこと、金堂では天智9年(670)に焼ける少し前に伐採された板を用いていたことをどう解釈するかが問題だと考えていましたので、驚いてその論文を探してコピーしたところ、20年以上前の下の論文でした。
竹原伸仁「法隆寺若草伽藍と西院伽藍に関する二題」
(松藤和人編『考古学に学ぶ(Ⅱ) 考古学教室開設五十五周年記念』、同志社大学考古学シリーズ刊行会、2003年)
竹原氏は、石田茂作によって戦時中におこなわれた若草伽藍の発掘調査により、この場所に四天王寺式の創建法隆寺が建立されていたことは確実となり、「赤色焼瓦」や木炭破片などが出土したことから、『日本書紀』の焼失記事の正しさが立証されたと考えられているが、石田はその罹災は天智9年だとは述べていないとします。
そして、戦後の調査でも大量の焼け土などは発見されていないため、火事はあったにせよ、「一屋無余」と述べる『日本書紀』の記事はそのままは信じられないとします。そして、「一屋」も残らなかったというが、「屋」という単位は、塔や金堂など伽藍の中心の建物には用いず、僧坊や事務機関の建物などに言うのだとし、明治時代に非再建論の平子鐸嶺がその点を指摘しているとしています。
そして、若草伽藍の礎石が西院伽藍で用いられていること、西院伽藍の瓦には若草伽藍の瓦と似ている古いタイプもあることなどをあげ、移転の可能性は否定できないとします。
また、五重塔の心柱については、実は昭和27年の調査の段階で推古15年(607)以前に伐採されたことが指摘されていたが、顧みられなかったと述べ、光谷氏の年輪測定によって594年伐採であることが明らかになったことを強調します。こうした指摘が受け入れられず、年輪測定法を疑う傾向が強かったのは、『日本書紀』の記述を信じたためだとするのです。
ただ、竹原氏は、自説にとって不利な事実にも触れており、この点は誠実な態度です。それは、西院の五重塔の心柱は、八角形で差し渡し79センチであるのに対し、若草伽藍の塔の心礎穴の差し渡しは70.5センチであって、これは法起寺三重塔の場合と同じだという点です。これだと、若草伽藍の塔の柱を西院伽藍の五重塔のために転用したとは言えないことになります。
竹原氏はこれを認め、若草伽藍の塔も法起寺同様、三重であった可能性があるとしています。これはあり得ますが、西院伽藍の五重塔の心柱は下部では不正円形になっていたことから見て、若草伽藍の心柱の接地部分は削る加工がされていて細くなっていた可能性を否定できないとし、また若草伽藍の礎石の上部は明治期に多少破損されていることも考慮すべきだとしているのは、強引すぎますね。
実際には、以後の調査によって、若草伽藍の金堂には壁画が描かれており、それが焼けた破片が出土してニュースになりました。その展覧を見たことはこのブログで紹介しました(こちら)。つまり、金堂が焼けたことは確実になったのです。
ただ、竹原氏は、今後、焼けた証拠が見つかる可能性にも触れており、あくまでもその時点での考古学の成果に基づいて考えられる説として述べています。その点、大山誠一氏らは考古学の成果を全く信用していなかったのですから、論外ですね。





