郡保家の一日

極く有りふれた家庭です。その生活の一端を記録していきたいと思います。

Kids料理教室2012年後期最終日

2013年03月06日 | 日記

 後期のキッズ料理教室が最終回で今回は前もっての準備は極力しないで自分たちの力で最後まで作ってみると言う方法を取りました。班長を決めて取り掛かりましたが高学年の権力が強く思いやりが足りなかった。指導するって難しいなと感じた実習でした。
 前・後期一緒にやってきたMさんに別の仕事が入り、この講座を担当することが出来なくなりました。それで担当者を4人から3人にするか、他のメンバーを募集するか、他のメンバーなら誰が良いか、いろいろもめることが出て来ました。自分としての考えをまとめておかねばなりません。 
 今日の夕食は、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆牛肉の甘辛炒め ◆高野豆腐の含め煮 ◆コロッケ ◆すまし汁 ◆ご飯

    久しぶりに小説を読む
 テレビ朝日が開局55周年記念ドラマスペシャルとして、ベストセラー作家・白川道の長編小説「最も遠い銀河」を今年の2月初め、2夜連続で放送したのを少し見て、本を読んでみようと図書館で借りてきて読みました。主人公がTVは刑事、小説は犯人(?)で脚本が大きく変えられていました。この本と並行して不条理を題材にした小説が多いカミユの小説「幸福な死」を読んでいると日本の作家の小説はフィクションとしてのテーマが浅く、途中で読むのを投げ出してしまいました。
 カミユ小説では幸福をどう手に入れるかの暗示があり、自分なり考えました。例えば帰省するとき、いつもの高速バスを利用すれば4.5時間以上かかるが、新幹線だと2.5時間で快適である。が、倍の旅費である。また、レストランで美味しい料理を食べる。それは至福の時間であるが、それには応分の費用がかかる。要は、そういう時間をお金で買って人生を楽しむ。人生を楽しみ、幸せを感じる。それこそが幸福であると思っている。しかし、それは私には表層の幸福ではないかと疑問に思う。感動する自分に本当に満足しているのだろうか。心の底から感動しているのだろうか。その場、その一瞬に感じる幸せ感と連続した時の流れの充足感とは違うように思う。それはそこに自らが行動した行為の中から得られる(能動の)ものと外から与えられた(受動の)ものとの違いである。映画を観て主人公になったつもりになるのに似ている。それは夢、幻である。現実の自分は何も変わっていない。高価なものを購入して所有欲(=所有している時間)は満足できても自分は偉くも何にもない。持たない他人から羨ましがられても購入前と後で何が変わったと言うのであろう。しかし、人間は人生の殆どをそんな時間を買うためのお金を稼ぐことに費やしている。<家内と幸福について議論したことで少し書く>

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