「勇敢」の大胆との異同

2012年06月14日 | 勇気について

4-2-5-1.「勇敢」の大胆との異同
 危険なものに無頓着という大胆さだが、危険を思うときには、その禍いを想像してこれを覚悟することがあろう。その危険に関する覚悟のその悲壮面を意識させる勇気・大胆さがあってよい。「勇敢さ」は、これを含蓄した勇気になるのではないか。勇「敢」の「敢えて」は、その悲壮な思い、覚悟をふまえ、その穏やかならざる心にもかかわらず、敢えて、ということであろうか。大胆さは、危険を覚悟しており、その悲壮面をもっているはずだが、それを表には出さない。むしろ、淡々としていて、否定的な危険の結果などには目をくれることなく、楽天的に危険に無頓着ということになろう。その悲壮面、覚悟の面を「勇敢さ」が語るのである。
 危険におののき、悲壮な思いにもなりがちなところで、躊躇させるもののある場面で、これらを敢えて断ち、覚悟し、決断し、思い切って一歩を踏み出すのが勇敢さであろうか。「大胆」は、大きな心(=胆)であり、大様さがある。些事に拘泥することのない大きなかまえをもつ。だが、勇敢さは、こだわりを残していて、恐怖も強く、悲壮になりつつ、しかし、敢えて、これらを抑制し、断ち切り、決断して危険に対決する覚悟を決めたものであろう。猛犬に襲われている我が子を救うために、猛犬に対決する母親は、勇気をふるう。その有様は、「大胆」というよりは「勇敢」の方がふさわしいであろう。大胆なのであるが、「大」「胆」では、大やかな心では、強すぎるのではないか。弱さを、悲壮の思いを感じさせるものとして、「勇敢」で形容する方がぴったりするのではないか。
 勇敢さは、放置できない大きな危険とこれへの不安・恐怖を前提にしつつ、これにとらわれることをやめて、覚悟をきめて思い切った勇気ある態度をとる。思い切り難いものを思い切るという辛い思いがあり、悲壮で、かつ強い闘志がそこにはある。大胆のみならず、果敢の攻撃的な勇気においても、「勇敢」はいう。「勇敢にも猛犬のそばに立つ」と大胆さをいうのみでなく、「勇敢に猛犬を殴りつける」と果敢な攻撃の場にもいう。危険な反撃が予想され攻撃にひるみがちになるような場面で、敢えてそれを無視し覚悟してということで「勇敢」が言われる。臆し躊躇するような場面で、恐怖し悲壮な思いをいだきつつも、これを断固として抑圧して、敢えて、勇気を出すという勇敢さである。
 勇敢の悲壮感は、勇気をふるう当人のものであるより、これを見て評価する者の思いいれということもある。危険に大胆に対決する勇者を見て、「自分なら、ためらい恐怖し悲壮になる。それを断ち、敢えて決断することになる」という気持ちを、その勇者に投影するのである。勇敢な当人は、あっけらかんと危険に無頓着で大胆なのかも知れない。それを見て感服している者だけが、悲壮な思いをこめて、「勇敢」なひとだと高く評価するようなこともありそうである。