大胆さには、思い切りよい決断力がいる。

2012年06月11日 | 勇気について

4-2-5.大胆さには、思い切りよい決断力がいる。
 大胆さは、危険なものを小とみなして、これに臆すことがない。その大胆な対決姿勢は、ためらうことなく、思い切った対応にでる。過度の慎重さをきらい、大胆に決断し、危険に対決していく。案じれば優柔不断に、いくらでもぐずぐずと思い悩むこととなる。きりがない。大胆な勇気は、躊躇せず、「案じるより産むが易し」と、危険に飛び込んでいく覚悟をもっている。
 慎重にことを運ぶのはいいことだが、それが行動をためらうことの正当化に利用されるのを大胆さは拒否する。深慮遠謀をもってして一旦結論が出たなら、あとは、堂々巡りになるのであり、大胆さは、ここで、案じることを停止して行動へと飛躍する。危険は、未来の禍いの可能性であり、危険が現実の禍いになるかどうかは、不確定のところを残す。いくら深慮を重ねても無駄となる。あとは、賭ける以外ないということになる。思い(を)切って、思案を断ち切って、ためらうことなく決断していくことである。
 この「思い切る」大胆の決断は、思いという(危険の)観念・想像から、思いを切り、断って、現実の実在の世界へと飛躍していく覚悟である。いくら観念・想像のうちで危険を思案していても、さきにはすすめないところがある。さきは、実在の実際の危険の世界になる。そこへと大胆さをもって飛び込むのが危険との真の対決となる。実在世界に入り危険なものと対決すると、はじめに想像していたのとは異なる危険の具体相も見えてくる。これに躊躇することなく、対決することが大胆さには求められる。さらに、対決し攻撃的に出て行くと、危険な敵は、反撃にも出てくる。それは、新規の想定外の危険として、ひるませるかもしれない。この新規の危険にも大胆さは、一段の勇気を振るって闘志を燃やし、臆することなく、決然として対決していく。
 弱い存在だから危険になり勇気を出しているのだが、大胆に、危険を小・些事と見下す姿勢の転換をするということは、観念的には自身を大とし、強者としての構え方になるということである。その対決の未来には、自身を覇者として描くのでもある。同時に他方では、現実の弱者として、危険と対決した結果が敗北となり、危険と恐怖の再来となることも覚悟はしてのことである。それでも敢えて危険を冒す決断をし、覇気をもって対決するのが、大胆の勇気である。
 大胆・果敢の勇気は、攻撃的な、いわば殴る方で、殴られる恐怖の忍耐とちがって、より自然的である。殴りかえされる恐怖がなければ、大いに殴ろうと欲するようなこともありうる。大胆の勇気は、そういう点では恐怖をしっかり抑止できればおのずからに出てくるものになる。「放胆」である。心(=胆)を放つと、こころには本源的に、攻撃的な能動性、決断力・実行力があるから、おのずと大胆になるというわけである。


大胆さの勇気は、危険に、賭ける。

2012年06月07日 | 勇気について

4-2-4.大胆さの勇気は、危険に、賭ける。
 大胆さは、恐怖への忍耐の勇気とちがい、こころのうちに留まっていない。そとの危険と対決するという姿勢の大転換をしている。心中の観念から、実在的な危険なものの世界へとおのれの挑戦するものを転換して、危険と戦おうという姿勢をもつ。この実在世界は、自身の観念を超えた世界であり、想定外の事態に出合うこともしばしばとなる。
 はじめに想定された危険との対決を実際にはじめてみると、その危険が思いのほかに小さかったり大きかったりすることになる。戦いでは威嚇しあうから見掛け倒しにすぎないことが少なくなく、危険は思ったほどではなく、大胆さが正解だったとなるかも知れない。しかも、対決をはじめることで新規に、相手から反撃されるという危険が恐らくは生じる。その新規の危険が大きすぎれば、たじろぎ怯むことになって大胆さを引っ込めることになるかも知れない。もちろん、大胆さは、当初から危険と対決する構えをもってはじめたのであり、新規の危険が出てきたら、その対決姿勢をもってして、一層の闘志を奮い起こして、これとも対決するのが普通であろう。想定外の危険を前にして勇気の大胆さは、一層の対決姿勢を堅持していくことになる。
 自身の能力についても、その危険と戦う力を実際に発揮してみるまでは、不明なところもある。意外に危険なものよりも自分の方が強くて、危険などものではなかったということにもなりうる。逆に大胆に出てみたものの、やはり、自分のうちの恐怖心が正解であったと大胆さを引っ込めて退却する事態になることもある。自己にとどまる恐怖とその忍耐の勇気とちがい、外の危険な世界への大胆な対決は、吉とでるか凶とでるか、実際に対決してみないと不分明で、賭けとなるところが大きい。
 大胆な勇気では、想定外の不確定の危険と対決することが不可避である。危険は、禍いの可能性であり、それが現実に禍いを引き起こすかどうかは、未定である。危険は現実化しないかも知れない。どう展開するか不確定なものが多い。猛犬のいる道を通るとき、咬みつかれる覚悟をして大胆に通り過ぎていくと、意外にも吠えつかれもせず無事に通れたということにもなる。大胆さは、この未定の危険なものの世界に思い切って飛び込もうというのである。賭けである。どうなるかは、分からないが、最悪も覚悟して、さきに進もうと、危険に飛び込む。否定的な結果を求めてそうするわけはなく、当然、よい結果を求めて、危険を引き受ける。不確定でどうなるかは不明だとしても、最善をつくして、あとは、運にまかせ、天にゆだねて、禍いの襲来も覚悟して、危険を小とみなし、ものともしないで、危険の中に飛び込む。その大胆な対決姿勢に、強い相手もたじろぎ、怯むことになるかも知れない。逆に、飛んで火にいる夏の虫と、隙を突いてくる可能性もある。一か八かで危険に賭ける大きな心が大胆さにはある。


大胆不敵

2012年06月04日 | 勇気について

4-2-3.大胆不敵
 大胆さは、危険を小と軽視しつつ、これに対決姿勢をとる。危険をものともしないで、予定の行動をすすめていく。敢えて、危険なものに防御の態勢をとることをしない。危険な敵を見下して、敵とするに足りない、敵ではないと、不敵な態度をとる。「大胆不敵」である。隙を平気でつくり、それへの防御なしで、ストレートに攻撃や別の目的行動を展開していく。自分が傷つくことを意に介さないか、傷つくことを覚悟して、攻撃等の大目的を優先する。
 「不敵」は、「無敵」とはちがう。無敵は、強力で敵として渡り合うものがないという「無敵の強さ」をもったものである。最強のため、対抗してくるような敵がいないのである。だが、大胆「不敵」は、強いわけではない。強い敵からもたらされる禍い・危険をもっている。ただ、その危険を小、とるに足りないと主観的に評価して、これを無視しこれに平気になって、その危険に対する防御態勢をとろうとしないだけである。大胆不敵の場合、客観的には、攻撃される危険をもっていて、敵は強いのである。主観的に無敵の態度をとっているにすぎない。単に主観的に、敵とするに足りないと、不敵に、見下しているだけである。
 亀の甲羅のように、防御をしっかりとしておれば危険には安全である。だが、どんな銃器からの攻撃にも耐えるような鎧や兜を着用したり、どんな矛も通さない楯を用意すると、それの重さで、防御でつぶれてしまい、攻撃とか他の行動がとれなくなってしまう。防御を軽微にすることで攻撃は大きく強いものになる。大胆不敵は、敵するものはいないと、この防御の装備を捨てる。亀がその重い甲羅をすてて、ひたすら攻撃的に対決できる体制をとるようなものである。大胆さは、不敵に、危険への無防備状態をあえてとる。客観的にいえば、大胆不敵は、危険に対しては、きわめて危うい状態に自らを置くのである。
 大胆な勇気は、不敵に危険なものを小と見下しているが、危険なものを意識する限りでは、恐怖の抑制・忍耐の勇気ももつことになろうか。おのれを大胆に無防備状態へと置くということは、攻撃されるところをあえて作っているのであり、その危険への恐怖をなんらかの形で感じることであろう。単に恐怖を忍耐する勇気とちがい、大胆さは、危険なものと戦う姿勢をもつから、危険な敵からの攻撃を誘い、危険をより大きくしている。それへの恐怖も抑制しつつの大胆不敵である。
 大胆になるのは、危険なものに対してである。危険があるということは、危険なものが強者で、自分はその限りでは、弱者の立場にあるということである。ネコとネズミでは、大胆になるのは、ネズミである。ネコは、ネズミに大胆になることはない。というか危険が生じないから大胆になれない。弱者であるネズミが、大きな利を得ようと、あえて危険に身をさらして、この危険を小と見下し、敵とするまでもないと意気込み、大胆不敵になるのである。