大胆さの勇気は、危険に、賭ける。

2012年06月07日 | 勇気について

4-2-4.大胆さの勇気は、危険に、賭ける。
 大胆さは、恐怖への忍耐の勇気とちがい、こころのうちに留まっていない。そとの危険と対決するという姿勢の大転換をしている。心中の観念から、実在的な危険なものの世界へとおのれの挑戦するものを転換して、危険と戦おうという姿勢をもつ。この実在世界は、自身の観念を超えた世界であり、想定外の事態に出合うこともしばしばとなる。
 はじめに想定された危険との対決を実際にはじめてみると、その危険が思いのほかに小さかったり大きかったりすることになる。戦いでは威嚇しあうから見掛け倒しにすぎないことが少なくなく、危険は思ったほどではなく、大胆さが正解だったとなるかも知れない。しかも、対決をはじめることで新規に、相手から反撃されるという危険が恐らくは生じる。その新規の危険が大きすぎれば、たじろぎ怯むことになって大胆さを引っ込めることになるかも知れない。もちろん、大胆さは、当初から危険と対決する構えをもってはじめたのであり、新規の危険が出てきたら、その対決姿勢をもってして、一層の闘志を奮い起こして、これとも対決するのが普通であろう。想定外の危険を前にして勇気の大胆さは、一層の対決姿勢を堅持していくことになる。
 自身の能力についても、その危険と戦う力を実際に発揮してみるまでは、不明なところもある。意外に危険なものよりも自分の方が強くて、危険などものではなかったということにもなりうる。逆に大胆に出てみたものの、やはり、自分のうちの恐怖心が正解であったと大胆さを引っ込めて退却する事態になることもある。自己にとどまる恐怖とその忍耐の勇気とちがい、外の危険な世界への大胆な対決は、吉とでるか凶とでるか、実際に対決してみないと不分明で、賭けとなるところが大きい。
 大胆な勇気では、想定外の不確定の危険と対決することが不可避である。危険は、禍いの可能性であり、それが現実に禍いを引き起こすかどうかは、未定である。危険は現実化しないかも知れない。どう展開するか不確定なものが多い。猛犬のいる道を通るとき、咬みつかれる覚悟をして大胆に通り過ぎていくと、意外にも吠えつかれもせず無事に通れたということにもなる。大胆さは、この未定の危険なものの世界に思い切って飛び込もうというのである。賭けである。どうなるかは、分からないが、最悪も覚悟して、さきに進もうと、危険に飛び込む。否定的な結果を求めてそうするわけはなく、当然、よい結果を求めて、危険を引き受ける。不確定でどうなるかは不明だとしても、最善をつくして、あとは、運にまかせ、天にゆだねて、禍いの襲来も覚悟して、危険を小とみなし、ものともしないで、危険の中に飛び込む。その大胆な対決姿勢に、強い相手もたじろぎ、怯むことになるかも知れない。逆に、飛んで火にいる夏の虫と、隙を突いてくる可能性もある。一か八かで危険に賭ける大きな心が大胆さにはある。