ジジババのたわごと

孫たちさらにその孫たち世代の将来が、明るく希望が持てる時代になってほしい。

臓器は足りない、献体は余っている

2011年04月04日 | Weblog

臓器移植を望む患者が多いのに「臓器提供」者が少ないので、移植待機者が多数いる現状である。

その一方で、「献体」を申し出ている人がたくさんいて、登録を断っているところがあるという。不思議に感じた。

 

臓器移植は、脳死と判定された人から臓器を取り出して、別の患者に移植することだ。

回復する見込みがなく治療方法もない人にとって最後の手段になる。

 

以前は臓器を提供する意思を明確にしていた人だけしか、臓器を摘出することができなかった。

昨年、臓器移植法が改正されてからは、本人の意思が明確でない場合には、家族の承諾で摘出することが可能になった。

現在は、健康保険証に臓器提供の意思表示欄が設けられるまでになっている。大半の人がおおよそのことは理解している。

 

法改正以降、臓器提供されるケースが増えているというものの、依然として移植する臓器の不足が解消しない。

臓器移植を待つ患者はまだまだたくさんいるし、10年以上の待機者も少なくない。

そのためアジア各地の臓器売買の「ヤミ市場」で移植先を探す患者が後を絶たないのが現状という。

 

臓器移植がそんな現状と認識していたので、献体もおそらく不足しているのだろうと漠然とながら思っていた。

「献体」というのは、遺体を医科大学に提供することだ。

医科系大学では医学教育としての人体解剖学や研究のために、多くの解剖用死体を必要としている。

献体を希望する人は、生前に登録しなければならない。家族全員の同意が必要となる。

死後12日のうちに提供先に搬送される。遺体が戻るまでの期間は13年かかるという。

 

死後の遺体に手を加えるという点で見ると、臓器移植の臓器摘出の場合と献体の場合で、決定的な違いはないように感じる。

ところが、遺体を献体として役立たせてほしいと「献体登録」する人は、余るほどいるというのだ。

 

臓器移植の提供者は足りないのに、献体提供者は余るほどいるということに、不思議なアンバランスを感じた。なぜだろうか?
どちらも生前に申し出て登録する、つまり本人の意思に基づくことを基本にしている制度だ。

「遺体にメスを入れてほしくない」のが理由でないことは見えた。

 

すると違いは、「心臓停止」か「脳死」かなのだろうか?

本人が生前に、臓器提供の意思を示す場合を想像してみると・・・。

心臓停止後であれば臓器摘出してよいが、脳死での摘出ならいやだという人は、あまりいないのではないかと感覚的に感じる。

「心臓停止」か「脳死」かという問題ではなさそうだ。

 

臓器移植は年令制限があるので、これが違いなって表れているのだろうか?

臓器移植の場合は、心臓はおおむね50歳以下とされている。ほかの臓器もだいたいが60歳以下だ。

どうもこの年齢による違いが思いのほか影響しているように思える。

 

高齢になると、「死」というものを現実のこと、日常的な問題として考える機会が増える。

人生の年輪を重ねてきて、ある達観した境地になって、心身ともに枯れてくる。

自らの遺体がなにかの役に立つのであれば・・・という心境になってくるのではないだろうか。

臓器提供は年齢ではねられるので、献体でという流れなのだろう。

 

それに引き換え、若者や現役で活躍している中年世代は、自らの死ということは遠い出来事に思う。

やはり恐ろしいという感覚にも支配されるだろうし、死後といえども肉体を傷つけることに抵抗を感じるというのも不思議なことでない。

そもそも「死」ということを身近に感じていない。生活の中での精神的なウエイトが老人とは全然違う。

生命力が旺盛な年代の死生観は、老人とは違いがあって当たり前、ということなのだろう。

 

中には、本人が脳死で提供してもよいという意志であったけれども、家族の反対でやめるケースは案外ありそうに思える。

特に本人が若いと親や家族が、遺体をそのままにしておきたいという希望が出ることは十分考えられる。



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