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近代革命の社会力学(連載第38回)

2019-11-06 | 〆近代革命の社会力学

六 第一次欧州連続革命

(3)1820年ポルトガル立憲革命  
 ポルトガルでもナポレオンの支配下、ブラガンサ王家が遠くブラジル植民地に亡命するという状況にあったが、ナポレオン帝政崩壊後も、王家はしばらくブラジルにとどまり、進駐してきたイギリス軍の庇護の下、暫定的な摂政府が統治する変則的な体制が続いていた。  
 このようなイギリス支配への不満に対し、最初に声を上げたのは秘密結社フリーメーソン会員であったが、イギリスと摂政府はこれを弾圧した。そうした状況下で1820年のスペイン立憲革命に触発された自由主義派将校が同年7月にポルトで反乱決起したのを皮切りに、反乱が全土に拡大、首都リスボンにも波及した。  
 革命派は、ブラジルから王を帰還させたうえで、ブラジルとポルトガルの分離を求めた。そのうえで、制憲議会を設置し、1822年にスペインのカディス憲法をモデルとする近代憲法を制定した。このように、ポルトガルの立憲革命は、王の本国帰還とともに成立した点に独自性がある。しかも、時の国王ジョアン6世は立憲革命に賛同し、1822年憲法を支持したのである。  
 また、スペイン立憲革命はデル・リエゴのような自由主義派将校を中心とした「軍人革命」という性格が強かったのに対し、ポルトガル立憲革命は、軍人より商業ブルジョワジーや知識人が中核を成し、総体的なブルジョワ革命の性格が強かった点も特徴である。  
 こうして、ポルトガル立憲革命はスムーズに展開するかに見えたが、ジョアン6世の三男ミゲル王子が絶対王政派の指導者として立ちふさがる形で、王家内部での権力闘争の火蓋が切られる。ミゲルは1823年に反革命反乱を起こし、ジョアン6世を拘束したが、リスボン駐在外交団の介入で王は救出され、ミゲルはオーストリアへ亡命した。
 しかし、ジョアン6世が1826年に王位継承者を指名せずに死去すると、王位継承が絡んだ政争に発展する。さしあたりは、ジョアンの最年長王子でいったん王位に就いたペドロ4世(兼ブラジル皇帝ペドロ1世)が幼い娘マリアに譲位し、摂政となることで決着した。  
 この摂政体制下、ペドロは絶対王政派との融和を図り、1822年憲法に修正を加えた。中でも立法府を二院制とし、上院は国王勅撰の貴族・聖職者議員で構成するとともに、国王に立法拒否権を与えた点で、立憲君主制は制約されることとなった。
 しかし、こうした融和策はかえって絶対王政派を勢いづかせ、1828年、帰国したミゲル王子を国王に擁立する事実上のクーデターを成功させた。ウィーン体制諸国の支持の下に成立したミゲル僭称王体制は憲法を無効化し、自由主義派への弾圧を断行した。  
 これに対し、立憲派が再び決起、以後、ポルトガルは1834年まで内戦に突入する。この内戦は、ブラジル皇帝を譲位して参戦した立憲派ペドロと絶対王政派ミゲルという兄弟王子の間で戦われるという稀有の宮廷戦争となった。  
 最終的に、内戦は立憲派の勝利に終わり、マリア女王が復位し、立憲政府が回復された。スペインと異なり、ポルトガルでは内戦という代償を払って立憲革命が死守されたと言えるが、以後、立憲派内部の対立から反乱やクーデターに見舞われ、19世紀半ば過ぎまで政情不安が続く。

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近代革命の社会力学(連載第37回)

2019-11-05 | 〆近代革命の社会力学

六 第一次欧州連続革命

(2)1820年スペイン立憲革命  
 1820年1月1日に開始されたスペイン立憲革命は、第一次欧州連続革命の初動を成す革命である。連続革命が革命とは無縁に見える保守的なスペインから始まったことには理由があった。  
 従来、スペインにはフランスのナポレオンが介入し、ボルボン朝を廃して自身の兄ジョセフをホセ1世としてスペイン王に擁立するという形で、スペインを属国化しており、これに対する反作用として独立戦争が発生していた。  
 この独立戦争渦中の1812年、アンダルシア地方の南端カディスに逃れていたスペイン亡命議会は、国民主権を軸とするスペイン最初の近代的な成文憲法(カディス憲法)を採択した。これはボルボン朝の復活を前提に従来の絶対君主制を立憲君主制に構築し直すことを予定したブルジョワ憲法であった。  
 ところが、ナポレオン帝政の崩壊後、1814年に復位したボルボン朝のフェルナンド7世は、自身の絶対権力を否定するカディス憲法が気に召さず、これを破棄して再びボルボン絶対王政の復権を目論んだのだった。  
 こうしたボルボン反動政治の復活に対して反発し、決起したのが、ラファエル・デル・リエゴ・イ・ヌーニェスであった。職業軍人として独立戦争にも参加し、フランス軍の捕虜となった経験を持つデル・リエゴは自由主義者でもあった。  
 復活ボルボン朝下では当初、ナポレオン支配に抵抗して独立の動きに出ていた南米で鎮圧軍連隊を指揮する予定だったデル・リエゴは、1820年1月1日、反旗を翻してカディスで反乱を起こしたのである。反乱の要求事項は単純で、カディス憲法を復活させることに尽きた。  
 軍はこの護憲反乱を支持しなかったが、次第に民衆の支持を受けて、首都マドリッドにも波及、ついに王宮が反乱軍に包囲される革命的状況に至り、フェルナンド7世は渋々ながら憲法復活要求を呑んだのである。こうして、ボルボン朝は残したまま、新たな護憲革命政府が樹立された。  
 デル・リエゴは、多くの革命指導者とは異なり、自身が新政府を率いる野心を見せず、ガリシア軍政長官という地方職にとどまった謙虚さという点で特筆すべきものがあった。しかし、立憲革命は王制廃止を求める共和主義者を勢いづかせ、1822年には共和主義者の反乱が起きた。  
 デル・リエゴ自身はフランス革命時のラファイエットに似て穏健な立憲君主制支持者だったにもかかわらず、共和主義者の反乱の背後にあるものと疑われ、いったん投獄されるが、彼の釈放を求める民衆の抗議行動により、国会議員に選出され、釈放された。
 こうして立憲革命が成功したスペインは、1820年から3年間にわたり「自由の三年」と呼ばれるブルジョワ民主主義の時代を迎えることになる。しかし、ボルボン朝を残したことは禍根となった。革命の急進化を恐れるフェルナンド7世の要請により、ウィーン体制下の絶対王政諸国が武力介入を決定する。  
 これを受け、1823年4月にフランス軍がスペインに侵攻、数か月の戦闘の後、8月に革命政府を打倒することに成功したのである。フランスを後ろ盾とする新たな反動政府は、11月に革命英雄デル・リエゴを絞首刑に処し、革命粉砕の象徴とした。  
 こうして、スペイン立憲革命が短期で挫折したのは、上述したようにボルボン朝を存続させたことが要因であった。その点、10年後にブルボン朝を廃し、君主制の枠内でよりリベラルなオルレアン朝に立て替えたフランス七月革命との相違が際立っている。

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近代革命の社会力学(連載第36回)

2019-11-04 | 〆近代革命の社会力学

六 第一次欧州連続革命

(1)概観  
 フランス革命がナポレオン帝政に変質し、さらにそのナポレオン帝政も打倒され、ブルボン王朝が復活、欧州全体の反革命反動同盟としてのウィーン体制が成立すると、欧州の革命運動はいったん厳しい冬の時代を迎える。  
 そうした挫折状況の中から、新たに自由主義的な立憲革命運動が勃興してくる。その運動は必ずしも統一的な組織によって遂行されたものではないが、ハイライトとなる1820年を皮切りに、ブルボン王政が再び打倒された1830年のフランス七月革命に至るまで、連続的な革命の波を作り出した。  
 このような国境を越えた欧州連続革命は、これが歴史上初であるが、欧州では1848年から49年にかけてもう一度発生しているので、本稿では便宜上、1820年‐30年の連続革命を「第一次欧州連続革命」と呼ぶことにする。
 第一次連続革命は、フランス革命後の欧州各地でフランス軍の占領下に出現したいわゆる「姉妹共和国」のようなフランス傘下の衛星国家の連鎖的樹立ではなく、各国でそれぞれ自主的に革命が起動された自発的連続革命であった点において画期的なものであった。 
 この連続革命は統一的な革命組織によって実行されたものではないが、イタリアではカルボナリ党なる革命組織が重要な役割を果たした。当時、北部はオーストリアに占領され、南部も分裂状態にあったイタリアでは、カルボナリ党運動が国家統一への最初の蠕動としての役割を担ったからである。  
 ちなみに、イタリア語で炭焼き人を意味するカルボナリの起源については諸説あるが、19世紀初頭の南イタリアに発祥したことはたしかで、極秘の集会所を炭焼き小屋に偽装することで当局の摘発を逃れようとしたことがその名称由来ともされる。  そうした発祥からも、カルボナリ党は秘密結社の性格が強く、当初は神秘主義的な宗教結社であったようであるが、活動を広げるにつれ、世俗自由主義的な立憲革命党としての性格を強めた。とはいえ、まだ近代的政党としての組織を備えていたわけではない。
 しかし、カルボナリは党員と非党員を厳格に区別し、党員を「義兄弟」と呼び合うなど、後の近代共産党組織のように結束が固く、排他的な運営をしていた点では、20世紀の革命的諸政党のプロトタイプと言えるような位置づけにある。  
 第一次欧州連続革命の初動は1820年、反動的なスペイン・ブルボン朝(ボルボン朝)に対して起こされたスペイン立憲革命であり、最終は1830年、フランス本家ブルボン朝を打倒したフランス七月革命である。このように、この革命は反動的なウィーン体制の象徴でもあった復活ブルボン王制に対する立憲革命という性格が強い。  
 スペインとフランスでの反ブルボン革命にはさまれる形で、ポルトガル自由主義革命、イタリアではやはりブルボン系のナポリ王朝に対するナポリ革命、さらにサルデーニャ王朝に対するピエモント革命が続いた。これらの革命の多くが1820年に集中したので、この年だけを取り出して「南欧同時革命」と呼ぶこともできる。  
 復活したブルボン本家の支配が強力だったフランスには1820年の同時革命が波及せず、10年遅れの1830年にようやく自由主義革命が勃発するが、この時にもパリに本拠を移転していたカルボナリ(仏:シャルボンヌリー)が寄与している。  全体として見ると、第一次欧州連続革命は18世紀フランス革命の挫折後、ブルジョワジーが各国の反動王制に対して起こしたブルジョワ革命の性格を帯びており、君主制そのものの打倒を目指す共和革命ではなく、立憲君主制の限度に収める「穏健」な内容に終始し、フランスを除いて、最終的には挫折していった。
 とはいえ、18世紀以前の革命が基本的に一国限りのものだったに対し、第一次欧州連続革命が国境を越えて革命の連鎖となった背景として、カルボナリ党の発祥地イタリアを越えた国際的な展開も寄与したと考えられる。

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貨幣経済史黒書(連載第27回)

2019-11-03 | 〆貨幣経済史黒書

File26:日本の昭和/平成バブル景気

 ニクソンショックとオイルショックという1970年代前半の二つの人為的な「ショック」は、戦後日本の高度成長を正式に終焉させたが、それで一気に日本経済が凋落したわけではなかった。70年代の打ち続くオイルショックを何とか乗り切ると、1980年代半ば過ぎから、急激な膨張的好景気を示したのである。  
 その契機となったのは、1985年9月のいわゆる「プラザ合意」にあったということで論者の見解は一致している。その合意内容は「基軸通貨ドルに対して、参加各国の通貨を一律10乃至12パーセント幅で切り上げ、そのために 参加各国は外国為替市場で協調介入を実施する」というものであった。  
 これも、ニクソンショックと同様、アメリカ主導の人為的な政策変更であり、その狙いはドル安へ誘導してアメリカの輸出競争力を高め、宿弊である貿易赤字を解消することにあった。ただし、ニクソンショックとは異なり、今回は一方的でなく、日本を含む主要5か国合意という形式をとったが、アメリカ以外の4か国に異論を挟む余地はなかった。  
 この急激な円安=ドル高政策により、ニクソンショック以来の円高=ドル安に歯止めがかかる一方、今度は円高による輸出減により日本の国内景気は一気に落ち込み、円高不況に入った。とりわけ輸出を生命線とする製造業での倒産が深刻化した。  
 これに対し、日本銀行はこうした場合のマニュアルである金融緩和措置を導入せず、1年ほどは公定歩合据え置き、無担保コールレートの引き上げという引き締め策を採ったうえで、緩和に転じるという奇策を選択した。  
 このような二段階的な措置は、インフレ率の低下局面での利下げ期待という市場の反応を招き、名目金利の先行的低下とそれによるいわゆる貨幣錯覚による投資ブームを誘発したと分析される。こうして実体経済から乖離して株式や不動産の資産価格が高騰するバブル景気の局面が導かれた。  
 ちなみに、人々が貨幣の実質的価値でなく名目的価値に基いて経済的な意志決定をする貨幣錯覚という現象は、「貨幣の中立性」なる非現実な仮定に基づいた古典派経済学的な概念である。貨幣そのものがそれ自体には使用価値を持たない名目的な交換価値の表象であることからすれば、「錯覚」こそが貨幣経済本来の姿なのである。  
 従って、錯覚的バブル景気は貨幣経済の歴史には付き物であるが、日本の昭和/平成バブル景気が特異なのは、その急激さと極端さにおいてである。過熱する市況の中、法人企業は証券・不動産投資、海外投資、リゾート開発に狂奔し、個人も名目上の賃金上昇を背景に株式投機や海外旅行などの贅沢な余暇活動に走った。  
 政府もまた、折からの貿易摩擦解消のための内需拡大という対米公約実施のため、オイルショック以来の緊縮財政を転換し、積極的な公共投資の拡大に踏み切ったことから内需が刺激され、官製バブルのような現象も起きた。  
 こうした狂奔ぶりには、錯覚された好景気を共有する多幸症的な集団心理が強く働いた可能性もあり、その全容は理論経済学的な分析だけでは解明できず、行動経済学のような新しい行動科学的な経済理論の助けも必要かもしれない。  
 一方、見かけ上の饗宴の影で、地上げのような暗黒の顔を見せたのが、昭和/平成バブル好景気である。地価の異常高騰を背景に都市再開発のブームが起き、不動産会社から委託を受けた仕事人的な闇業者が暗躍し、借地人を暴力的に追い出す地上げは、生存権という基本権を侵害する最悪のバブル事象であった。  
 地価高騰は結果的に住宅の取得を困難にするが、同時に住宅高騰をも誘発し、住宅の購入がいっそう困難になるという形で、居住権全般が危機にさらされたことは、昭和/平成バブル景気時代の暗黒面と言えるであろう。  
 昭和/平成バブル景気は、平成初年の1989年12月29日に、日経株価平均が現時点でもいまだ破られていない38957円の最高値を記録した頃が絶頂期と言えた。より大きな目で見ても、昭和/平成バブル景気時代の日本は、戦後日本の貨幣経済史上絶頂期を画したと言えよう。  
 しかし、その影では規律を欠いた際限のない投機・投資ブームと銀行の放漫融資を招き、不良資産・債権の山が築かれ、バブルが始まったとされる1986年からバブル晩期の90年にかけて、法人企業は年平均約140兆円、家計も25兆円という空前規模で金融負債を蓄積していた。バブル景気は、砂上に高くそびえる楼閣だったのだ。

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近代革命の社会力学(連載補遺4)

2019-11-03 | 〆近代革命の社会力学

六ノ〇 スウェーデン立憲革命

(4)ベルナドッテ朝と立憲君主制
 立憲革命後に王位に就いたカール13世はすでに高齢で、病弱でもあったうえに、継嗣もなかったため、王位継承問題が直ちに浮上した。もっとも、王統断絶を契機に共和制へ移行する選択もあり得たが、1809年革命を主導した革命派は立憲君主制の支持者であり、共和制は想定されていなかった。
 ここで、スウェーデン議会は稀に見る奇策に打って出る。こうした場合、通常、他国の王族を招聘することが欧州君主制の慣例であったところ、議会はナポレオン麾下のジャン‐バティスト・ベルナドット元帥を次期国王たる王太子として招聘したのである。
 ベルナドットはフランスの下級法律家の息子で、中産階級平民の出にすぎず、本人自身も認めていたとおり、本来なら一国の君主になる資格はなかった。そのような人物にスウェーデン革命派が白羽の矢を立てた理由は種々考えられるが、一つには革命派に軍人が多かったこと、ナポレオンのフランスを知悉する人物が望ましかったこと、さらにスウェーデン語を解さない外国人の平民出自君主なら立憲君主制が確立しやすいと目論まれたことなどが考えられる。
 ナポレオンもこの奇策に呆れつつ承諾したため、ベルナドットは1810年、カール13世の養子となり、スウェーデン流にカール・ヨハン・ベルナドッテを改名したうえ、摂政王太子に就任、カール13世指揮挙後の1818年にカール14世ヨハンとして即位し、今日まで続くベルナドッテ朝の始祖に納まったのである。
 カール14世ヨハンの治世は彼が死去した1844年まで26年に及んだが、この間、欧州では第一次連続革命、彼の故国フランスでも七月革命を経験する激動の時代であった。そうした中、カール14世は保守的なスタンスを取り、故国での七月革命には否定的であった。
 革命派が密かに期待していた立憲君主制の確立は、カール14世の保守思想や彼自身に統治者としての手腕があったことからも、目論見通りにはいかず、14世存命中は絶対君主制とまではいかないまでも、国王親政によるかなり権威主義的かつ啓蒙的な立憲君主制の運用となった。
 その点、カール14世が摂政王太子時代の1814年にデンマークから割譲させたノルウェーは、同年、当時の欧州では最も先進的な憲法を制定して独立を目指した。この動きはスウェーデン軍の力で抑圧されたが、その後もノルウェーはスウェーデンとの同君連合の枠組み内で、憲法を盾にしばしばカール14世と衝突するのであった。
 この時代のノルウェーは欧州の他国に先駆けて中産階級の形成が進んでおり、依然として貴族制を残すスウェーデンの保守的な階級社会との不調和が生じていたところ、貴族制の廃止をめぐってカール14世と衝突した末、14世にこれを認めさせたのである。
 結局のところ、スウェーデンにおける立憲君主制はカール14世を継いだ息子オスカル1世のより自由主義的な統治の下で最初の進展を見せ、以後、歴代ベルナドッテ朝君主の治下で、革命を経ることなく、漸進的に確立されていくこととなった。そこには、平民出自王朝たるベルナドッテ朝の柔軟性が寄与していたかもしれない。

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続・持続可能的計画経済論(連載第7回)

2019-11-02 | 〆続・持続可能的計画経済論

第1部 持続可能的計画経済の諸原理

第1章 環境と経済の関係性

(6)非貨幣経済の経済理論  
 伝統的な経済理論は、市場理論であろうと、計画理論であろうと、みな貨幣経済を前提として構想されてきたこれは、貨幣という交換手段の発明以来、人間の経済活動が貨幣を軸に展開されるようになってきたことからして、必然的なことであった。  
 一方、非貨幣経済は、貨幣経済が普及していない「未開」の民族の慣習を研究する人類学(経済人類学)の課題とされてきた。そうした古来の慣習は興味深いものではあっても、「文明」社会に持ち込めるものではない。  
 その結果、歴史上旧ソ連で本格的に開始された計画経済においても、貨幣経済を維持することを前提とする経済計画が追求された。そこでは、物やサービスを貨幣と交換するという商品形態が少なくとも消費財に関しては維持され、経済計画の主体となる国家がその財源を重点分野に投資するという貨幣による財政運営も従来どおりであった。
 そうした点では資本主義と大差ないが、異なっていたのは自由市場を公式には認めず―闇市場は違法ながら、潜在していた―、あらゆる物資を経済計画に従い、公定価格でコントロールしようとしたことである。
 しかし、貨幣という手段は元来、自由な物々交換取引の中から交換を簡便・敏速・大量的に反復・継続するために「発明」されたものであるから、本質的に自由市場を前提とする交換媒体である。それを計画経済にも当てはめようとすることには、ほぼ「物理的な」と形容してよい無理があった。  
 また、過去幾多の革命が目指した財産の均等(均産)という究極命題も、貨幣経済を維持する限り、夢想に終わるだろう。常に自己に有利な取引を成立させ、利益を得ようと奮戦する経済主体の競争場である自由市場から生まれた貨幣を社会の全成員に均等に分配するということは、不可能事だからである。  
 実のところ、計画経済とは本来、貨幣交換を前提としない経済システムである。貨幣交換に基づく市場を持たないからこそ、生産・流通を規整する全体計画を必要とするのだと言ってもよい。その意味で、計画経済の理論は必然的に非貨幣経済の経済理論となる。  
 とりわけ、経済を環境内部化することを目指す「生態学上持続可能的計画経済(持続可能的計画経済)」は、貨幣経済とは馴染まないだろう。というのも、そこでの計画の大枠を規定する環境規準はその性質上、貨幣価値に換算することができないからである。  
 そうすると、ここからは従来の経済理論にとってほとんど未知の領域となる。しかし、真の計画経済理論を確立するためには、従来の経済理論の前提を大転換し、非貨幣経済の経済理論を構築し直さなければならない。  
 そこでは、例えば、生産総量を貨幣価値に換算して計測するGDP(国内総生産)や、GDPの上昇率を指標とする「経済成長」のような概念は廃棄される。それに代わって、生産総量は現実の生産物量をもって計測され、「経済成長」ではなく、現実の生活者の視点に立った「生活の質」が重視されるだろう。
 もっとも、生産物量の上昇率をもって「経済成長」の新たな指標とすることは理論上可能だが、厳正な環境規準に導かれる計画経済において、その絶え間ない上昇を是とする「経済成長」は経済が環境を突き破る恐れのある危険な概念となる。
 それに代わり、現実の生活者の栄養状態や健康状態、平均寿命や子どもの死亡率、居住環境、労働・余暇時間などの諸指標により総合評価された「生活の質」の向上がドメスティックな経済状態の重要な判断基準とされるのである。

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近代革命の社会力学(連載補遺3)

2019-11-02 | 〆近代革命の社会力学

六ノ〇 スウェーデン立憲革命

(3)対ロシア敗戦から革命へ
 グスタフ4世は、父王グスタフ3世が復刻した絶対君主制の忠実な継承者として、1796年の親政開始後も、身分制議会を招集することなく統治しようとしたため、議会招集を必要とする戴冠式を1804年まで延期していた。同年に財政難に対処する必要が生じて、ようやく議会を初招集したが、それも渋々とであった。
 4世は対外政策に関しても父王の反フランス革命の方針を継承し、対仏大同盟に積極的に参加したが、大同盟軍がナポレオンのフランス軍に敗北したことで、目算が狂い始めた。とりわけ、同盟国だった帝政ロシアとの間で軋轢を生じた。
 その後、勃発する対ロシア戦争の詳細な経緯は本連載の趣旨を外れるので省略するが、この戦争はスウェーデンの敗北に終わり、フィンランド領とオーランド諸島をロシアに割譲させられることとなった。その結果、スウェーデンは父王の時代に再興したバルト海帝国としての地位を喪失したのである。
 父王グスタフ3世の復刻絶対君主制に存外な国民的支持があった理由として、「自由の時代」にいったん喪失したバルト海帝国としての地位を復活させたことがあったため、グスタフ4世がこれを喪失したことは、絶対君主制における体制の危機に直結した。
 破綻の時は、すぐに到来した。対ロシア戦争敗北から間を置かず、1809年3月、ゲオルク・アドラースパーレやカール・セデルストロームといった中堅の貴族将校らが電撃的なクーデターを敢行し、グスタフ4世を宮殿で拘束するという極めて直接的なやり方で革命を成功させた。
 手法としては軍事クーデターであったが、「1809年の男たち」と通称される革命集団はグスタフ3世の宮廷クーデター以来、権勢を喪失していた貴族階級に属しており、絶対君主制の廃止と新たな統治法(憲法)に基づく立憲君主制の回復を明確な目的としていたから、これは一つの立憲革命であった。
 この革命を主導した集団が1792年のグスタフ3世暗殺の背後にあったと見られる集団と同一かどうかは、暗殺事件の背後関係の解明が完全にはなされなかったため、判然としないが、絶対君主制の時代に逼塞していた貴族階級は、革命としては失敗に終わった暗殺事件の後も、雌伏して時機を待っていたものと思われる。
 1809年の革命では、4世は暗殺されることなく、廃位されるにとどまった。4世は退位して同名の王太子グスタフに譲位することで妥協しようとしたが、新政府はこれを拒否し、グスタフ4世子女の王位継承を否定、4世の叔父に当たるカール13世を新国王に推戴したのである。
 カールと言えば、グスタフ3世時代の1789年の陰謀に際しても、首謀者集団によって新国王に担がれることが目論まれていたが、彼がこれを拒否したことで失敗に終わった経緯がある。
 遡れば、カールは1772年の兄王の反動クーデターに協力しており、決して立憲君主制の支持者とは言えなかったが、すでに高齢で、継嗣もないことから、当面の「つなぎ」として革命派に担がれたものと考えられる。
 こうして、グスタフ3世・4世父子による37年に及んだ復刻絶対君主制の時代は突然強制終了したが、その最大の要因は対ロシア戦争の敗北であった。このことがなければ、他の大陸欧州がまだ反動の時代にあった1809年の時点で立憲革命は成功していなかっただろうという点では、敗戦が革命の動因となった後世のロシア革命等との共通性も見られる。

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近代革命の社会力学(連載補遺2)

2019-11-01 | 〆近代革命の社会力学

六ノ〇 スウェーデン立憲革命

(2)復刻絶対君主制の両義性
 スウェーデンの立憲革命は、18世紀中に、身分制議会制度の枠内ながら、一度は原初的な立憲君主制が成立した後、グスタフ3世の宮廷クーデターで絶対君主制が復刻したという転回を前史としている。
 このスウェーデン復刻絶対君主制の時代は、グスタフ3世及び4世の二代37年間という一時代に及んでいるが、この間の絶対君主制には両義性が見られた。
 彼が覆した「自由の時代」は貴族政治の時代でもあり、王権が形骸化する一方で、貴族の特権が増した時代でもあった。そのため、グスタフのクーデターは、むしろ権力から締め出されていた農民階級や都市民などからは、貴族政治からの解放として歓迎されたのであった。
 また、グスタフ3世は啓蒙専制君主の性格を持ち、「自由の時代」の象徴だった出版自由法は厳しく制約し、言論統制を強化しつつも、拷問の廃止や社会福祉事業、文化振興策などには、国王主導で取り組んだ。
 こうしたことから、農民・市民階級などを支持基盤とするある種のポピュリズムの側面を持ったのが、この復刻絶対君主制の時代であった。他方、自由を喪失した貴族階級の間では不満が鬱積し、1789年のグスタフ廃位の陰謀と1792年のグスタフ暗殺事件はそうした貴族層の不満を背景とした反体制の蠕動であった。
 1789年の陰謀は計画段階で挫折したが、1792年の暗殺は防止できなかった。首謀者は貴族出自の元近衛士官ヤコブ・ヨハン・アンカーストレムという人物であったが、他に40人ほどの共犯者がおり、かなり綿密に計画された陰謀であった。暗殺後にはクーデターも予定していたとされるが、不発に終わった。
 この国王弑逆という欧州でも稀有の事件は1809年立憲革命の先取りのような出来事ではあったが、大衆的人気のある国王の暗殺という過激策に出たことで、かえって民衆の怒りを買い、実行犯アンカーストレムは、残酷な体刑を受けたうえ、公開斬首刑に処せられた。この時点では革命の機はまだ熟しておらず、かつクーデター計画自体も粗雑なものだったため、失敗に帰したのである。
 父王の暗殺により、13歳で即位したのがグスタフ4世であったが、当然当初は親政できず、大臣グスタフ・アドルフ・ロイターホルムが事実上の摂政役として補佐した。ロイターホルムはリベラルな政治家で、再び出版自由法を緩和したが、グスタフ4世が18歳になった1796年に親政を開始すると、ロイターホルムは追放され、父王時代の政策に復帰した。
 グスタフ4世の治世前半期はまだ故グスタフ3世の人気と声望が残され、かつフランス革命の余波が恐れられた時期でもあり、4世親政による反動的絶対君主制の継続は問題視されることなく、受け入れられたのである。

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続・持続可能的計画経済論(連載第6回)

2019-11-01 | 〆続・持続可能的計画経済論

第1部 持続可能的計画経済の諸原理

第1章 環境と経済の関係性

(5)環境と経済の弁証法  
 環境と経済の対立矛盾関係を解消しようとする場合の視点として、伝統的な環境経済理論は「環境と経済の両立」という予定調和論を掲げてきた。このような標語はわかりやすく、無難でもあるので、大いに膾炙しているが、その実は空理である。  
 それが空理となるのは、そもそも自然環境に働きかけ、時にそれを破壊してでも推進される産業革命以来の近代的な経済活動は、自然環境と常に対立緊張関係に立たざるを得ないからである。  
 環境と経済の対立という問題に関して、古典派経済学の枠組みでは、環境を経済の外部条件とみなし、環境破壊を外部不経済事象としてとらえてきた。そのうえで、排出権取引や環境税(炭素税)といった政策技術により外部不経済を内部化して経済と環境の対立関係を緩和しようとする。  
 このような方向性は、外部不経済を過小評価して経済活動の優位性をあくまでも護持しようとする経済至上的な理論に比べれば、経済と環境の対立関係を弁証法的に止揚しようとする良心的な試みと言える。しかし、自然法則に支配される環境という外部条件を完全に内部経済化することは不可能であり、それは常に不完全な内部化にとどまらざるを得ず、弁証法としても部分的なものにとどまる。  
 そもそも経済と環境を内部/外部という関係性で切り分ける前提を転換して、人間の経済活動も環境という大条件の内部において実行される営為の一つにすぎないと想定してみよう。ただ、そう想定したところで、環境と経済の対立関係が自動的に解消されるわけではない。  
 人間の欲望に動機付けられた経済活動は、容易に環境条件を突き破って外出してしまう。産業革命以来の環境破壊は、そうした「経済の環境外部化現象」と解釈することができるであろう。そのような状況を打開するためには、経済を環境の内部にとどめておく必要がある。  
 その点、産業革命以前の経済活動は、生産技術がいまだ人力に依存した非効率で未発達なものであったため、必然的に経済活動は環境条件の内部にとどまっていられたが、産業革命以降は拡大的な技術発展のおかげで生産力の飛躍的な増大が継起したことにより、経済は環境を超え出るようになった。  
 そうした経済の環境外部化を解消する方法として、生産技術を産業革命以前の発達段階に揺り戻すという逆行が可能でも適切でもないとすれば、環境計画経済の導入によるしかないであろう。環境計画経済、わけても「生態学上持続可能的計画経済(持続可能的計画経済)」は、経済活動を量的にも質的にも環境規準の枠内にとどめるための技法という性格を持つ。  
 そこにおける環境と経済とは完全な弁証法的関係に立つが、その完全性を担保するものが厳正な環境規準に導かれた経済計画である。逆に言えば、経済計画を介して環境と経済の対立関係は完全に止揚され、解消されることになるのである。

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