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貨幣経済史黒書(連載第29回)

2019-11-24 | 〆貨幣経済史黒書

File28:日本のバブル経済崩壊

 日本経済の昭和/平成バブル景気は1986年頃に開始され、87年の「ブラックマンデー」をも跳ね返し、元号が替わった平成初年度の89年に最高潮を迎えたと見られているが、世界の過去におけるバブル現象と同じく、実体経済と乖離したバブル現象が長続きすることはなかった。
 90年3月に土地投機の過熱を懸念した旧大蔵省が土地融資関連の抑制という対処に、日本銀行の金融引き締めが相乗作用して、信用収縮が急激に生じたため、恐慌に近い状態が招来されたが、真の恐慌とはならず、むしろ長期不況への序章となった。
 90年10月にはまず先行して株価の下落が始まり、次いで翌年には地価の下落が続くというように、バブルを象徴する株式と土地という二大投機対象の価値下落が明瞭となった。現実の展開として、株価の急激な暴落は起きなかったため、バブル崩壊の日付を明確にできないことが昭和/平成バブル「崩壊」の特徴であるが、おおむね1992年夏までにはバブルの終焉が認識された。
 景気循環という観点で見ると、93年にいったん持ち直しているが、昭和/平成バブル崩壊は緩慢に始まり、さらにその余波が10年という長期スパンで遷延したことから、世上「失われた10年」と呼ばれたり、もっと悲劇的に「第二の敗戦」と呼ばれたりもした。
 実際、この間、株式と土地だけで総計1500兆円近い価値が失われたと推計されているから、まさに「失われた10年」であったが、元来バブルは実体経済を離れた蜃気楼現象なのであるから、蜃気楼が消失し、本来の実体経済に見合った姿に是正されるリバウンド現象ととらえれば、そう不可解でもない。
 ただ、日本の昭和/平成バブル景気は、あまりにも規模が大きく、それに参入したのも法人企業からバブル期の所得増によりゆとりの生じた個人に至るまで国民の多数に及んだため、リバウンドの衝撃もいっそう大きかったということに特徴があった。国民的規模で陥った「貨幣錯覚」への反動とも言える。
 しかし、それだけにとどまらず、「第二の敗戦」とまで呼ばれたのは、むしろバブル崩壊そのものよりも、その余波が大きく、かつ長かったせいでもある。とりわけ、資本主義経済の総設計師でもある銀行、さらには個人・法人を通じた投資及び企業の資金調達の司令塔でもある証券会社の破綻が続いたことの影響は甚大であった。
 銀行は、バブル期に担保価値に見合わない融資や持続性のない事業への融資を展開し、バブル景気を演出した影の戦犯的地位にあったが、バブルが崩壊すると、それらの放漫融資の代償は巨額の不良債権として残された。この時期に生じた銀行の不良債権総額は200兆円、損失処理に伴う純損失総額でも100兆円に達すると推計されている。
 銀行の経営破綻がメインバンクの喪失として融資先企業の連鎖的破綻を招くことは必然であるが、破綻を免れた銀行も一転して貸しはがしや貸し渋りといった厳格融資・返済方針に転換するから、それによっても、事業維持に不可欠な他人資本を喪失した融資先企業は経営破綻する。90年代後半のバブル崩壊処理期には、こうした銀行由来の企業倒産も相次いだ。
 ちなみに、この時期に経営破綻した有力金融機関としては、北海道拓殖銀行、日本長期信用銀行、日本債券信用銀行、個人向けの住宅ローンを手掛けた住宅金融専門会社がある。また、法人営業に注力していた大手証券会社の山一證券が損失補填などの不公正な顧客救済措置で生じた債務を簿外に隠蔽していた不正会計問題を機に廃業に追い込まれたことも、衝撃を与えた。
 こうした一連の混乱に対応するため、多くの関係諸法令が改廃され、行政官庁の大規模な再編も実施されたのが、90年代後半から2000年代初頭にかけてのことである。また時をほぼ同じくした冷戦終結・ソ連解体とその影響を受けての国内政界再編といった政治動向も含め、この時期にはたしかに敗戦後の時代状況に匹敵する激変があったと言えるかもしれない。
 バブル崩壊余波としての「失われた10年」は、2002年には収束したと見られているが、その処理策として断行された「構造改革」は、高度成長期の「所得倍増」政策とは異なり、労働市場の規制緩和や富裕層減税を通じて所得格差を助長し、日本経済を市場競争主義的に再編しようとする政策的企てであり、このことが、間もなく直面する世界大不況において悲劇を生むことになる。

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