ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

「女」の世界歴史(連載第20回)

2016-04-19 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(1)女権抑圧体制の諸相

⑥両義化される「男色」
 男性同士の同性愛は、古代国家の時代にはそれを禁忌とする意識は薄く、性愛慣習として広く行なわれていたと見られるが、古代国家を過ぎると状況が変わり始める。ことにユダヤ教・キリスト教やイスラーム教のような中東発祥の一神教は、ほぼ一致して男色を宗教的な禁忌とみなすようになったのである。
 中東系一神教がなぜ反同性愛と結びつくのかについて、明確な解答は困難であるが、一つにはこの砂漠地帯独特の遊牧的家父長制が生み出した父性化された唯一神を崇拝する宗教体系が、血縁家族の維持につながらない同性愛行為を忌避するようになったとも考えられる。
 ことに異端者弾圧を積極的に行なうようになるキリスト教では、しばしば男性異端者に「男色家」の烙印を押して弾劾し、男色者に残酷な死罪を科した。ところが、その厳粛なるキリスト教聖職者がしばしば侍童や聖歌隊少年、見習い修道士などと性的関係を持つ習慣はまま見られたようである。
 また同様の関係は騎士と見習い騎士、従者との間にも見られた。一般庶民間の状況は不明であるが、おそらく西欧ではキリスト教化された後も、ギリシャ‐ローマ的な少年愛の慣習がまだ残されていたのであろう。
 今日では最も厳格に反同性愛の立場を取るとみなされているイスラーム世界にあっても、男性同士の性行為は表向き禁忌とされながら、少年愛の慣習が見られたようである。ことにイスラーム世界としては後発のイランやオスマントルコでは男色が盛んに行なわれていたことが確認される。
 全般に中世封建的社会は騎士や武士としての男性が社会を主導する編制を持っており、武芸に秀でた肉体的男性を理想化するマチズムの風潮が強かったが、一方で、騎士や武士の間では宗教的規範に反する隠された慣習としての男色も広く行なわれていた。
 この点で、より興味深いのは日本の場合である。実は日本の神道においても男色は「阿豆那比(あずなひ)」という罪に当たると認識されていたようであるが、これが厳守されていた形跡はない。また最大の外来宗教である仏教は「不淫戒」を掲げるにもかかわらず、日本仏教は戒律の遵守にかけてはルーズと言えるほど消極的であり、「女犯」・妻帯が多発する一方で、僧侶と稚児等の間の男色慣習も見られたようである。
 中世以降には武士と小姓の間の男色が慣習化され、ことに戦国武将の多くが精神的な関係のものも含めて半ば公然たる恋男を持っていた。こうした男色は近世江戸時代には「衆道」の名において性風俗文化にさえなり、町人の間にも広がっていった。
 このようにマッチョな世界にあって男色が習俗化されていた社会に共通するのは、女性が排除された「男社会」の空間で代替的に男色が取り込まれるという関係である。言わば「男社会」における擬似的な男女関係であり、その関係において年少の男性は半女性化されていたのである。
 このようにおおむね中世における男色は、建て前上は宗教規範的に禁忌とされながら、事実上黙許された慣習としてかなり広範囲に行なわれており、言わば両義化されていたと言える。男色の禁忌としての側面の強化は、一見奇妙なことに、近世・近代以降における女性の地位の向上と反比例する形で現象してくるのである。


コメント    この記事についてブログを書く
« 「女」の世界歴史(連載第1... | トップ | 災害に強い計画経済 »

コメントを投稿