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戦後ファシズム史(連載第33回)

2016-04-26 | 〆戦後ファシズム史

第三部 不真正ファシズムの展開

5‐7:マラウィの開発ファシズム
 コードディボワールのウフェ‐ボワニ体制と類似する体制として、アフリカ南東部マラウィで1964年の独立から94年まで続いたヘイスティングズ・カムズ・バンダを指導者とするマラウィ会議党体制がある。
 バンダは医師の出身で、医療関係から出た点でもウフェ‐ボワニと類似する。バンダは旧英領ローデシアの一地方であったニヤサランド(現マラウィ)の反英独立運動闘士として台頭した。独立前には投獄も経験したが、釈放後は独立後の初代首相に就く。66年には初代大統領に選出されると、71年以降は終身大統領となり、瞬く間に強固な独裁体制を築いた。
 彼の政治動員マシンとなったのが、マラウィ会議党である。この党は元来、旧ニヤサランド独立運動組織を母体とする民族主義政党であり、ファシズムを直接の綱領としていない点では、ウフェ‐ボワニの民主党と同様であり、ともに不真正ファシズムに分類できる。
 しかし、バンダ体制はウフェ‐ボワニ体制以上に全体主義的性格の強いものであった。まず成人は全員が自動的に党員とされ、かつ党員証の常時携帯・提示義務まで課せられた。またナチ親衛隊に近い青年武装組織が監視や迫害の最前線を担った。バンダへの個人崇拝も強制されたほか、服装規制を国民のみならず外国人にも強制するなど、生活統制も徹底された。
 イデオロギー的には強固な反共主義者であったバンダは、国内的な弾圧より対外的な反共介入工作に向かったウフェ‐ボワニとは対照的に、国内反体制派への苛烈な弾圧を実行し、30年に及んだ彼の政権下ではおおむね人口1千万人前後で最大2万人近くが殺害されたとする推計も存在する。
 バンダの体制のもう一つの特徴として、経済開発への傾斜がある。彼はアメリカの経済学者ウォルト・ロストウの経済発展段階理論に依拠して、国家主導での資本主義的成長政策を実践しようとしていた。
 そのため、バンダ政権はいくつもの国策企業を設立したが、特に主要な役割を担ったのが、71年に設立された国営の農業発展市場開拓公社である。これはタバコを中心としたマラウィの農産品の海外販路の開拓を通じた農業開発を担う国策企業であった。
 この会社は当初こそ効率のよいビジネスモデルとして評価されていたが、バンダ独裁下で支配層の利権絡みの汚職にまみれていった。80年代には国際的なタバコ価格の下落による打撃を受けたうえ、最終的に世界銀行の借款支援体制の下、機能縮小を余儀なくされた。
 一方、バンダ政権は道路建設をはじめとする都市開発も進めるため、首都開発公社を設立し、人種差別政策を敷く南アフリカをブラックアフリカ諸国中、唯一承認し、外交関係を正式に築いたうえ、その資金援助を受けるといったプラグマティックな政策でも際立っていた。
 こうした開発ファシズム体制は輸入代替産業の構築による経済的な自立を目指す野心的なものではあったが、70年代の石油ショック後の経済危機にはうまく対処できず、一方ではバンダとその取り巻きたちの蓄財のシステムと化していき、87年以降は世銀とIMFの構造調整プログラムの適用を受けることとなった。 
 92年には大規模な食糧難に陥ったことを契機に、ドナー諸国及び国内からの民主化圧力が高まり、複数政党制の移行を認めざるを得なくなった。すでに推定90歳を超えていたと見られるバンダはなおも権力に執着し、94年の大統領選挙に出馬したが、野党候補に大敗し、ついに政界引退に追い込まれたのであった。
 その後のマラウィでは定期的な大統領選挙が実施され、比較的安定した民主主義が定着しつつあるが、経済的には一人当たりGDPが200乃至300ドル台とアフリカ諸国中でも下位にあり、全世界でワースト10に入る低開発国である。その点からすると、バンダ時代のマラウィは開発ファシズム体制としては最も失敗に帰した事例と言えるだろう。


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