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「女」の世界歴史(連載第18回)

2016-04-05 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(1)女権抑圧体制の諸相

④女性スルターンの受難
 ムハンマド没後のイスラーム教団は預言者ムハンマドの代理人を意味するカリフを首長とする祭政一致共同体として発展をしていくが、初期には選挙で選ばれたカリフの適格条件として、男性であることが前提とされた。
 前回触れたように、ムハンマド存命中のイスラーム教団は女性の活躍・寄与が大きかったにもかかわらず、ムハンマド没後の教団はすみやかに女権排除体制として確立されていったのであった。従って、ウマイヤ朝以降、カリフが事実上の世襲君主化してからも、カリフ体制が続いた間、女性カリフというものは一人も輩出されなかった。
 他方、4代カリフのアリーから分岐したイスラームの第二勢力シーア派では、アリーを初代とするイマームを最高首長と仰ぐが、正統的なイマームはアリーとその妻で預言者ムハンマドの娘ファーティマ(生母はハディージャ)の子孫でなければならないとされる。その限りでファーティマの血統を規準とする母系的な発想をとるが、女性イマームは認めない。
 こうした女権排除体制に小さな風穴が開いたのは、カリフ体制が形骸化し、その下で西欧の皇帝に相当するスルターンが実権を握るようになってからである。特に、主にトルコ系の解放奴隷軍人マムルークが歴代スルターンを務めたマムルーク系王朝は、その実力主義的な風潮から女性スルターンを輩出した。
 その初例は、北インドに興ったデリー・マムルーク朝5代スルターンのラズィーヤである。彼女は、3代スルターンの父イルトゥトゥミシュから実力を認められ、後継指名されていたが、女性に反発する貴族や宗教者らの策動により、1236年の父の死に際し、兄のフィールーズ・シャーに後継の座を奪われた。
 しかし、スルターンとしては暗愚だったフィールーズ・シャーに対して各地で反乱が発生すると、ラズィーヤはこの機会を利用して民衆革命を煽動、1236年中にスルターン位を奪取した。父の指名があったとはいえ、ほぼ実力での即位である。
 ラズィーヤはスルターンの女性形スルターナで呼ばれることを拒否し、イスラーム女性の風紀である顔面の覆いもせず、男装で執務したと言われる。しかし、女性スルターンへの風当たりはなお強く、その治世は政情不安に満ちていた。
 治世末期には大規模な反乱が同時発生し、ラズィーヤ自ら鎮圧に向かうも、鎮圧軍中で反乱が発生し、ラズィーヤが拘束される中、貴族らはラズィーヤを廃位し、ラズィーヤの弟バフラーム・シャーを擁立した。ラズィーヤは反攻に出て、デリーに進軍するも敗れ、敗走途中農民の強盗に襲撃され、殺害された。
 1240年のラズィーヤの死から10年後、エジプトでシャジャル・アッ‐ドゥッルが本格的なマムルーク朝を創始した。バグダッドのアッバース朝カリフの後宮奴隷女官からエジプトに興ったクルド系アイユーブ朝7代スルターン・サーリフの正室に栄進した彼女は、夫の急死後、マムルーク軍団(バフリーヤ)を動員して十字軍を撃退する功績を上げた。
 その後、サーリフを継いだ義理の息子をクーデターにより殺害してアイユーブ朝を滅ぼし、1250年、マムルーク軍部の支持を得て自ら即位、マムルーク朝を樹立したのであった。シャジャル・アッ‐ドゥッルは「ムスリムの女王」を称するなど、ラズィーヤと異なり、自らの女性性を隠すことはしなかったようである。
 彼女は即位後、十字軍との戦後処理を手堅くこなしたが、女性君主に対する男性陣の反発に抗し切れず、マムルーク軍人アイバクと再婚したうえ、夫に譲位したのである。わずか3か月ほどの在位ではあったが、シャジャル・アッ‐ドゥッルはマムルーク朝の支配という中世イスラーム世界の新たな歴史を開いたのであった。
 しかし、再婚相手アイバクとは確執が深く、1257年に夫を暗殺する挙に出たが、直後、アイバク配下のマムルークによって報復、殺害された。
 彼女が夫を暗殺した動機は夫がモースルの領主の娘を妻に迎えようとしていたことを裏切りと感じたことにあるとされるが、一夫多妻制ではあり得ることであり、真の動機は高齢で政治的にも優柔だったアイバクを排除して自ら再登位することにあったのかもしれない。
 こうして、中世イスラーム世界では二人だけの希少な女性スルターンはともに悲劇的な最期を遂げている。ともに男性にひけをとらない政治手腕を備えていたが、実力主義的な風潮の強いマムルーク系王朝ですら、女権排除の策動を免れなかったのである。


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