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戦後ファシズム史(連載第32回)

2016-04-25 | 〆戦後ファシズム史

第三部 不真正ファシズムの展開

5‐6:コートディボワールの開発ファシズム
 開発ファシズムは戦後に独立した東アジア・東南アジアの後発国に比較的集中した不真正ファシズムの体制であるが、同様の状況にあったアフリカ大陸にも少ないながら開発ファシズムに該当する体制が出現している。
 その一つは西アフリカのコートディボワールで、独立年の1960年から99年まで二代の大統領をまたぎ40年近く存続したコートディボワール民主党‐アフリカ民主大会議(以下、民主党と略す)の支配体制である。
 この党は、初代大統領で「国父」とも称されるフェリックス・ウフェ‐ボワニによって創設された。二重的な党名の後段にあるアフリカ民主大会議は46年の結成から58年の解散までやはりウフェ‐ボワニが代表を務め、当初フランス領西アフリカ及び赤道アフリカに属した各地域の独立運動‐汎アフリカ主義諸政党の連合として結成された超域的民族政党であり、コートディボワール民主党もその加盟政党であった。
 ウフェ‐ボワニ自身はフランス植民地時代の医学校に学んだ医療助手を本職とし、農民運動を基盤とする文民政治家として独立運動に貢献したベテランで、60年の独立と同時に初代大統領となった時にはすでに50歳を越えていた。
 アフリカの多くの独立運動家たちが社会主義者を名乗り、親ソ姿勢を見せる中、ウフェ‐ボワニは彼らと一線を画し、反共主義と旧宗主国フランスを含む親西側の立場を当初から鮮明にしていた。この路線の違いは、アフリカ民主大会議の分裂と解散につながった。
 とはいえ、彼も西欧的な民主主義は峻拒した。自身が起草を主導した憲法は、大統領に強力な権限を付与する一方、議会は単なる法案・予算案の形式的な認証機関に格下げされ、民主党による一党支配制の下、議員はすべて党員中から大統領によって事前に公認された者で固められた。また全成人が自動的に民主党員とされ、民主党は単なる政党を超えた政治動員マシンとして機能した。
 ウフェ‐ボワニは政権発足直後には多数の秘密裁判を実施し、政敵を排除したが、そうした一連の政治裁判が一段落した60年代半ば以降は、抑圧的な政策を緩和する一方で、反共主義の立場からソ連や中国を敵視し、周辺諸国の社会主義政権に対する転覆操作に向かった。
 ウフェ‐ボワニがもう一つ注力したのは、経済開発である。同時代のアフリカとしては珍しく、自由経済を志向し、西側先進諸国からの外国投資を呼び込んだため、政権中期までは高い経済成長を記録し、「イヴォワールの奇跡」と称賛された。
 しかし、農業政策では主産業のカカオとコーヒーに依存したモノカルチャーに偏ったため、80年代にカカオとコーヒーの国際価格が下落すると打撃を受け、対外債務も増大して経済危機に陥る。一方で、経済危機による庶民の生活難を尻目に、ウフェ‐ボワニ自身の故郷の町に遷都し、そこに巨額の国費を投じて大規模な聖堂を建設するなどの濫費や蓄財も批判を浴びた。
 民主化圧力も強まる中、90年、ついに複数政党制の導入に踏み切るが、民主党は独裁党時代に築いた基盤を利用して圧勝、ウフェ‐ボワニも大統領として七選し、政権を維持した。しかし、すでに80歳を越える高齢のうえ、癌が進行していたウフェ‐ボワニは93年、任期半ばにして死去した。
 後任には80年から国会議長の座にあったベテランのアンリ・ベディエが就いた。ベディエは主要野党がボイコットした95年の大統領選に圧勝するが、ウフェ‐ボワニ政権末期に首相を務めたアラサン・ワタラとの政争が激化する中、99年に軍事クーデターで政権を追われ、民主党体制は終焉した。
 以後のコートディボワールでは地域的な民族対立も絡んだ党派抗争が激化し、二度にわたる内戦を経験するなど、政治経済の混乱が続いた。こうした根深い対立はウフェ‐ボワニ存命中には彼の権威によって巧妙に抑止されていたが、その死後、集中的に噴出してきたものと言える。
 結局のところ、「イヴォワールの奇跡」の成果の大半は内戦期を通じて失われ、同国の開発ファシズムは長期的な成功を収めることなく、失敗に帰したと評さざるを得ない。


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