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「女」の世界歴史(連載第17回)

2016-04-04 | 〆「女」の世界歴史

第二章 女性の暗黒時代

(1)女権抑圧体制の諸相

③イスラーム教と女性
 今日、女性差別の象徴のようにも受け取られるイスラームであるが、その出発点においては女性の活躍と寄与が見られた。中でも開祖ムハンマドの妻たちである。
 ムハンマドは記録上生涯に13人の妻を持ったが、最初の妻ハディージャはムハンマドよりも10歳以上年長の未亡人であり、夫の遺産を相続して自らラクダ隊商貿易を営むビジネスウーマンでもあった。早くに両親を亡くし、ハディージャの商業代理人として就職していたムハンマドのほうが富裕な妻から経済的に援助される側の「逆玉婚」であった。
 ムハンマドがイスラームを創唱したのも、ハディージャとの結婚後であり、彼女は最初のイスラーム信者となって、当初は迫害も受けた夫の教宣活動を支えたのであった。ムハンマドはこの元雇い主の年上妻には終生頭が上がらず、彼女が存命中は新たな妻を迎えようとしなかった。
 このように、ムハンマドの「逆玉」初婚は現代風の一夫一婦婚であり、一夫多妻が慣習の当時としては異例のものだったに違いない。このような婚姻はムハンマドの宗教活動を可能にする物心両面での基盤となったと同時に、ムハンマドにある種の女性コンプレクスを生じさせたかもしれない。
 その反動からか、ハディージャ没後のムハンマドは一転して多数の妻を持つようになるが、三人目の妻アーイシャはわずか6歳か7歳ほどで50歳を超えていたムハンマドに嫁いだとされる。初婚とは対照的な幼児婚であるが、これも当時のアラブ社会では政略婚の一種としてまま見られたようである。
 成長したアーイシャもムスリムとなり、発展するイスラーム教団を支え、反イスラーム勢力との戦闘に際しては、自らも夫に同行し戦場に出るという女傑的な性格もあった。彼女はムハンマド没後も、教団の精神的な支柱として発言力を保ち、対立する4代カリフのアリーと交戦した656年の「ラクダの戦い」では自らラクダに乗って出陣したとされる。この戦いに敗れたアーイシャは一線を退き、余生はムハンマドの言行を記録するハディースの伝承に努めることで、宗教としてのイスラームの確立にも貢献している。
 このように、初期イスラームにおいては女性の活躍と寄与が他宗教と比べても大きかったにもかかわらず、その後のイスラームが女性差別的な方向へ流れていくのは不可解とも言えるが、それにはいくつかの要因が想定される。
 一つには、イスラーム創唱以前のアラブ社会ではハディージャのように経済的に自立した富裕な女性も存在した一方で、女性を家畜のように相続・交換する慣習もあったとされ、イスラームはそうした悪習を正し、女性を人間として保護しようとしたことである。ムハンマドがハディージャ没後に迎えた多数の妻たちも、幼児婚のアーイシャを除き、寡婦だったと見られることから、彼の多妻婚には寡婦の救済という保護的な側面があったとも考えられる。
 もう一つは、砂漠という苛酷な環境を生活場としてきたアラブ民族における男性優位的な家父長制共同体構造の制約である。このような制約は、アラブ社会から発祥したイスラームも免れることはできなかったのであろう。
 第一の側面と第二の側面が合わさり、家父長制共同体での女性の保護となれば、それは夫への服従と家庭の奥への束縛と引き換えの「保護」という性格を強く帯びたはずである。


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