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「女」の世界歴史(連載第10回)

2016-02-22 | 〆「女」の世界歴史

第一章 古代国家と女性

(3)古代東アジアの女権

①古代中国の女権忌避
 東アジアは今日でも女権が弱く、女性の社会的地位は相対的に低いが、そのことは大なり小なり東アジア世界が強い影響を受けてきた中国の歴史的な女権忌避と関わっているかもしれない。中国はその長い帝政の歴史において女帝をただ一人しか出していないほど、女権忌避が徹底しているからである。
 ただし、黄河文明から派生した祭政一致制の殷王朝では、女性は卜占を担う巫女として間接的に政治的決定にも参与したほか、呪者として戦場にも出た。記録に残る最も高名な殷女性は、第22代武丁の妻婦好である。彼女は自身が将軍として大軍を率いたほか、祭祀にも関わり、祭政・軍事の各方面で活躍したと見られる。
 しかし、殷に続く周の時代になると、中国的な封建制が敷かれ、政治制度が合理化されるにつれ、卜占家としての女性の役割は終焉し、女権忌避的な風潮が強まっていったと見られるのである。
 とはいえ、皇后や皇太后など后の立場で皇帝の背後から事実上政治に関与するいわゆる垂簾聴政がなされることはあったが、これとて皇帝が幼少であるなどの場合における代行的な関与にとどまった。しかし、そうした数少ない古代中国の女性権力者は時代の画期に登場して重要な役割を果たしている。
 記録に残る最初の垂簾聴政者は全国王朝化する以前の秦の宣太后―始皇帝の高祖母―とされるが、全国王朝史上では前漢創立者劉邦(高祖)の皇后呂雉(呂后)である。
 彼女は一族への身びいきや実子である2代皇帝恵帝のライバル庶子の生母に対する残虐な処刑で悪名高いが、劉邦没後、太后として息子と二人の孫の計三代の皇帝の後見役として前漢最初期の政情不安を抑え、王朝の継続性を保証した功績がある。呂太后の治世の泰平さは彼女の悪性格を批判した司馬遷からも高く評価されているほどである。
 また時代下って北魏時代の馮太后(文成文明皇后)は、夫文成帝の後を継いだ義理の息子献文帝を殺害したうえ、献文帝の子孝文帝を擁立し、その後見役として実権を掌握した人物である。彼女も呂太后並みの強権統治家であったが、その聴政期には社会経済的な制度の整備にも尽力し、均田制や三長制など、その後、北朝から出た隋唐などの統一王朝によって継承発展されていく律令制度の基礎を築いた功績がある。
 その意味では、本来は北方遊牧民族鮮卑系の王朝であった北魏を漢化し、漢風の諸制度を整備して、北朝がやがて全国王朝にのし上がる土台を築いたのが馮太后だったとも言えるだろう。ただ、北魏自体は彼女の政策を継いだ孝文帝の行き過ぎた漢化政策がもとで国の分裂を招き、全国王朝となることはなかった。

②唯一女帝・武則天
 中国帝政史上唯一の女帝として異彩を放つのは、武則天である。彼女は初め、唐の3代皇帝高宗の皇后となり、病弱な皇帝に代わり、垂簾聴政を執った。その強権ぶりはその頃から始まっているが、自身が傍流の貴族層出身であったため、唐の支配層であった名門貴族層の排除を徹底したのであった。
 彼女が長い中国王朝の伝統に反して帝位に就いたのは男系後継者が絶えたためではなく、自らの意思によるものであった。彼女は高宗没後に実子である二人の息子中宗と睿宗を相次いで傀儡に立てた後、女帝の出現を啓示する預言書なる仏典を捏造・流布するというイデオロギー宣伝を行なったうえで、睿宗を廃位して自ら帝位に就いた。
 これをみると、彼女は相当以前から自身の帝位簒奪を計画し、その正当化のための情宣まで想定していたものと思われる。逆に言えば、それほどに中国における女帝は当時の道理に反していたということを意味するだろう。
 帝位に就いた武則天は国号を「周」(武周)に改めたうえ、皇太子に降格した睿宗に唐王室の姓である李に代えて武姓を名乗らせたことをみると、自らを祖とする「女系王朝」を作り出そうとしていたのではないかとも思われ、彼女の思考にはある種フェミニズムの要素も認められる。
 そのためにも宗教的な思想操作を必要とし、自身を弥勒菩薩の生まれ変わりとする神秘がかった「聖神皇帝」を名乗り、そのことを記した経典を納める寺院(大雲経寺)を各地に造営させるなど、道教を国教としてきた唐に代わり、仏教を国教に位置づけたが、こうした一種の「宗教改革」も自身の帝位の正当化のためであった。
 一方で、実務面では権力基盤を固めるために垂簾聴政時代から行なってきた非貴族層からの人材登用を引き続き行い、実力主義的な風潮を作り出したため、彼女の宮廷には門閥にとらわれない有能な官僚が集まってきた。
 このように、武則天の事績は擬似革命的な変革を伴うものでもあったため、守旧派の反発も強く、晩年の彼女が病気がちとなると、唐朝復活運動が起きる。最終的には側近らに迫られて一度廃位した息子の中宗を復位させ、自らは太后の地位に退いたのであった。
 709年に武太后が没した後、中宗の韋皇后が姑にならい、第二の武則天たらんとして、夫の中宗を殺害するクーデターを起こすが、これを鎮圧し、唐朝を回復させたのが睿宗の息子(武則天の孫)に当たる玄宗である。
 玄宗の前半期の治世である開元の治はしばしば唐の全盛期と称賛されるが、これを実務面で支えたのは、元は武則天によって抜擢された姚崇・宋エイの両宰相であり、唐を中興し、さらに100年以上持続させた玄宗時代は人材・政策面で武周時代に多くを負っていた。皮肉にも、唐を倒した武則天は唐の再生と持続を保証したのであった。


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