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近代革命の社会力学(連載第10回)

2019-08-27 | 〆近代革命の社会力学

二 17世紀英国革命

(4)革命諸派の分岐状況  
 革命の過程では、その方向性や方法をめぐって革命勢力の間で諸派が分岐していく現象が見られるが、革命前から最初期には妥協派と革命派が対立し、革命が進展するにつれ、急進派と中庸派が対立する傾向が強い。このような状況は、いわゆる清教徒革命でも観察される。  
 当初、議会=平民院と国王の対峙状況においては、議会多数派を占めていた長老派と少数派の独立派が対立関係に立った。長老派は英国国教会の内部改革を主唱するグループであり、本質的に保守的で、国王との和解を望んでいた。  
 しかし、捕らわれたチャールズ1世に対し、長老派が単独で和平交渉を進めようとするや、独立派がクーデターを起こして長老派を追放、独立派のみで構成されたいわゆる残部議会を形成した。これを革命の本格的な開始時点とみなすこともできる。  
 残部議会を主導した独立派は、宗教的にはカルバン主義であり、英国国教会からの分離を目指した点では分離派の一派であるが、宗教的というよりは政治的な党派性が強い勢力であった。後に執権者となるオリバー・クロムウェルも出自したこのグループは内戦を戦い抜いた主戦派として、革命の中核勢力に座る。
 なお、独立派と近いながら、より宗教性が濃厚なグループとして、第五王国派という分派もあった。このグループはアッシリア、ペルシア、ギリシア、ローマに続くキリスト教による五番目の千年王国を実現するという宗教的ユートピアを掲げていたが、革命成功後により世俗的な独立派とは袂を分かつことになる。  
 独立派は革命の遂行ということに関しては強硬であり、メンバーは将校として内戦を指揮し、最終的に国王の裁判と処刑も主導したが、地方地主層が中心であったことから、革命後の施策においては基本的にブルジョワジーの利益を重視していた。そのため、平等の徹底を求めるより急進的な水平派と対立することになる。  
 水平派は1647年に憲法文書「人民協定」を策定し、その中で国民主権、法の下の平等、信仰の自由、上院廃止と王制廃止、人口比例的な選挙区に基づく普通選挙の実施などの民主的な項目を掲げた。しかし、独立派は当時としては急進的すぎたこの提案を却下し、反発した水平派の反乱を奇貨として、弾圧で応じたのだった。  
 水平派は一般兵士や都市の市民を支持基盤とする急進派であったが、農民層を支持基盤とする最急進派として、真正水平派が分岐した。これはギルド商人出自の政治思想家ジェラード・ウィンスタンリーを主唱者とするグループであり、実験的試みとして共同農場を運営するなどの理想主義的実践を見せた。  
 真正水平派はキリスト教に基づく農民社会主義的なグループであったが、そのユートピアン的実践が広く浸透することはなく、独立派にとっては取るに足らぬ小グループにとどまった。最終的に、かれらを敵視した地主によって共同農場を破壊され、消滅した。

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