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近代革命の社会力学(連載第3回)

2019-08-05 | 〆近代革命の社会力学

一 北陸一向宗革命

(2)越中・加賀の旧体制  
 越中‐加賀一向宗革命によって転覆された越中・加賀の旧体制を見てみると、まず先行した越中には中世以来、大規模な領主勢力は形成されず、荘園制時代からの豪族や国人の小勢力が入り乱れていた。室町時代には畠山氏が守護となり、畠山領となるも、在京守護のため、その支配力は限定的で、守護代神保氏などが下刻上的に実権を掌握していたが、まとめ切れておらず、内乱状態であった。  
 加賀も当初は同様の状況で、在地在庁官人に出自すると見られる在地豪族の富樫氏が一応守護職であったが、一時斯波氏に守護職を奪取されるなどした末、同職を奪還した富樫氏が復帰、以後は富樫氏支配が続いた。しかし、富樫氏はとかく内紛の多い一族であった。  
 こうした状況下にあって、14世紀末、本願寺派第5世法主綽如[しゃくにょ]が越中に端泉寺を創建したことを皮切りに、15世紀には第6世法主巧如[ぎょうにょ]の子が加賀に本泉寺を創建し、北陸地方の浄土真宗(一向宗)布教の拠点とした。  
 巧如の孫に当たる第8世法主蓮如は、当時衰退していた本願寺派の権勢を回復するための足場として、北陸地方での布教と宗門統合に注力した。その過程では、富樫氏の内紛に際して時の若年の当主富樫正親を支援し、その地位奪回に協力するなど、当初は布教を有利に進めるべく領主権力に与していたのだった。  
 ところが、本願寺派勢力の力量を警戒し、弾圧に転じた正親の手を逃れた宗徒らが越中の端泉寺に亡命してきた。これに対して、正親と結託していた越中福光城主の石黒氏が本願寺派宗徒を討つべく、瑞泉寺を攻めるも、返り討ちにあい、敗北してしまう。その勢いで、一揆衆は加賀国と西で接する越中南西部を占領した。これが、一連の一向宗革命の端緒となる。  
 他方、正親は主君に当たる室町将軍の支持を得て、加賀の領国支配を確立しようと、時の第9代将軍足利義尚の六角氏征伐に従軍したが、戦費調達を担わされた配下の在地国人層が反発し、一向宗徒とともに武装蜂起した。これに対処すべく、鎮圧のため帰国した正親と一向宗徒の間で戦闘となり、最終的に一揆衆が正親を自害に追い込み、富樫氏支配を打ち破った。
 このように、越中‐加賀の一向宗革命の舞台となった北陸地方は領主権力が元来不安定で、常態的な政情不安に置かれていたということが、革命の土台となっている。領主権力の安定と善政が領民の生活安定の唯一の保証だった封建社会で、領主権力の弱さとその結果としての内乱の多発は、領民層の反発・決起を招来しやすい状況であったと言える。

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