神戸ビエンナーレは今年で3回目。前2回はボランティアとして参加したが、今年は時間も取れず一見学者として。結果的にボランティアとして参加するまでもなかった。というのは今年の展示は従来の屋外会場ではなく、屋内にコンテナ仕様のスペースを設けてのそれであったこと、その展示されている作品自体が期待外れであったことによる。
期待外れというのは言い過ぎかもしれない。それは、もともと神戸ビエンナーレという新参イクシビション(exhibitionの正確な発音は苦手)の持つ限界かもしれないし、神戸ビエンナーレの主催者や出品者が、そもそも横浜トリエンナーレはもちろん、ヴェネチア・ビエンナーレに見られるような現代アートにおける「社会性」に鈍感か、あるいは、禁忌しているからかもしれない。ありていに述べる。
先輩格である横浜トリエンナーレは、海外の出品者の割合が神戸ビより多い。そして、中にはヨーロッパをはじめ世界各国のアーティストもいて、ホロコーストの記憶やパレスチナで現在何が起こっているのか、あるいは旧ユーゴスラビアの地で、あるいは、軍事独裁政権の続いてきたチリなど南米の国でどう生きたか、そして中国でどう表現の自由が侵されているかを描いている作品も多い。現代アートが必ず政治的課題を取り上げなければいけないということではない。しかし、日本が内向きと批判される要素は十分にあって、世界で今、過去何が起こっているのか、未来に何が起こり得るのかにつき、あまりに言及がないというのは事実である。
2005年の横浜トリエンナーレであったか、海外のビデオ作品でいきなりシャワーを浴びるものがあった、狭い空間で。単にシャワーを浴びている映像ではない。これは、アウシュビッツに送り込まれたユダヤ人が、シャワーを浴び、それが生きるか死ぬかの別れ目であることを自覚する分岐点であることを描いたものであった。シャワーを浴びるって普通でしょ? いや、狭い空間で、いきなり、有無を言わせず、シャワーを浴びさせられるシチュエーションはアウシュビッツそのものなのである。
あるいは、ウサギが飛び越えられないフェンスがある。ウサギはフェンスの左右を行き来するがあちら側へは行けない。急に人が超えられないフェンスが現れる。そう、イスラエルがパレスチナの民に自由に交通させないために設置した分離壁である。フェンスの映像だけではそこがヨルダン川西岸地区であるとか、イスラエル人に入植された(すなわち侵略された)パレスチナの地であることは容易には分からない。しかし、描かれていることは明らかである。
かように横浜トリエンナーレをはじめ、ヴエンチア・ビエンナーレなどは持に、政治的メッセージに溢れている。それは、政治的である以前にアートも社会性を持つべきだとする出品者の矜持をも見て取れる。翻ってみれば今回の神戸ビエンナーレはどうか。従来より室内という解放感に欠ける制限はあったにしても、人工的な光の表現と、メカニカルなプレゼンテーションはどうだ。どれも同じように見えるし、どれも、コンピューター技術と、鏡やその他デバイスに頼った作品群が多い。社会的メッセージは一体どこにあるのか。
3.11以降、日本でも反原発のうねりはとどまるところを知らず、日比谷公園では6万人集会、ウォール街に端を発した反格差デモは日本にも波及した。現代アートは、「アート」だけをしていていいのではない。社会性なきところに現代アートの魅力はない、とは言い過ぎだろうか。
同時期に開催されているヴェネチア・ビエンナ-レの日本館出品となった束芋の諸作品は、国際情勢を撃つものではないが、「日本の台所」や「日本の快速電車」を見ても分かるように、現代日本の言いようもない無力感と希望のなさをあからさまに描いているように見える。神戸ビエンナーレはそこまでさえも届いていない出品、とは偏見であろうか。
ただ、別会場である野外彫刻(インスタレーション)作品群(ポートアイランドあじさい公園)は、その作品意図が明確な分だけ面白かった。また、兵庫県立美術館で招待作品として展示されている「具体」の作品群(元永定正さんはついこのあいだ亡くなった)は50年前にして、これほどの新しさと思わせたので、神戸ビエンナーレのすべてが否定すべきと言っているのではないので、念のため。(元永定正「へらん へらん」)
期待外れというのは言い過ぎかもしれない。それは、もともと神戸ビエンナーレという新参イクシビション(exhibitionの正確な発音は苦手)の持つ限界かもしれないし、神戸ビエンナーレの主催者や出品者が、そもそも横浜トリエンナーレはもちろん、ヴェネチア・ビエンナーレに見られるような現代アートにおける「社会性」に鈍感か、あるいは、禁忌しているからかもしれない。ありていに述べる。
先輩格である横浜トリエンナーレは、海外の出品者の割合が神戸ビより多い。そして、中にはヨーロッパをはじめ世界各国のアーティストもいて、ホロコーストの記憶やパレスチナで現在何が起こっているのか、あるいは旧ユーゴスラビアの地で、あるいは、軍事独裁政権の続いてきたチリなど南米の国でどう生きたか、そして中国でどう表現の自由が侵されているかを描いている作品も多い。現代アートが必ず政治的課題を取り上げなければいけないということではない。しかし、日本が内向きと批判される要素は十分にあって、世界で今、過去何が起こっているのか、未来に何が起こり得るのかにつき、あまりに言及がないというのは事実である。
2005年の横浜トリエンナーレであったか、海外のビデオ作品でいきなりシャワーを浴びるものがあった、狭い空間で。単にシャワーを浴びている映像ではない。これは、アウシュビッツに送り込まれたユダヤ人が、シャワーを浴び、それが生きるか死ぬかの別れ目であることを自覚する分岐点であることを描いたものであった。シャワーを浴びるって普通でしょ? いや、狭い空間で、いきなり、有無を言わせず、シャワーを浴びさせられるシチュエーションはアウシュビッツそのものなのである。
あるいは、ウサギが飛び越えられないフェンスがある。ウサギはフェンスの左右を行き来するがあちら側へは行けない。急に人が超えられないフェンスが現れる。そう、イスラエルがパレスチナの民に自由に交通させないために設置した分離壁である。フェンスの映像だけではそこがヨルダン川西岸地区であるとか、イスラエル人に入植された(すなわち侵略された)パレスチナの地であることは容易には分からない。しかし、描かれていることは明らかである。
かように横浜トリエンナーレをはじめ、ヴエンチア・ビエンナーレなどは持に、政治的メッセージに溢れている。それは、政治的である以前にアートも社会性を持つべきだとする出品者の矜持をも見て取れる。翻ってみれば今回の神戸ビエンナーレはどうか。従来より室内という解放感に欠ける制限はあったにしても、人工的な光の表現と、メカニカルなプレゼンテーションはどうだ。どれも同じように見えるし、どれも、コンピューター技術と、鏡やその他デバイスに頼った作品群が多い。社会的メッセージは一体どこにあるのか。
3.11以降、日本でも反原発のうねりはとどまるところを知らず、日比谷公園では6万人集会、ウォール街に端を発した反格差デモは日本にも波及した。現代アートは、「アート」だけをしていていいのではない。社会性なきところに現代アートの魅力はない、とは言い過ぎだろうか。
同時期に開催されているヴェネチア・ビエンナ-レの日本館出品となった束芋の諸作品は、国際情勢を撃つものではないが、「日本の台所」や「日本の快速電車」を見ても分かるように、現代日本の言いようもない無力感と希望のなさをあからさまに描いているように見える。神戸ビエンナーレはそこまでさえも届いていない出品、とは偏見であろうか。
ただ、別会場である野外彫刻(インスタレーション)作品群(ポートアイランドあじさい公園)は、その作品意図が明確な分だけ面白かった。また、兵庫県立美術館で招待作品として展示されている「具体」の作品群(元永定正さんはついこのあいだ亡くなった)は50年前にして、これほどの新しさと思わせたので、神戸ビエンナーレのすべてが否定すべきと言っているのではないので、念のため。(元永定正「へらん へらん」)