たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

対象そのものについて語らないこと

2011年04月03日 21時33分36秒 | 人間と動物

ジュラロン川のプナンにおいて顕著な実践は、「対象そのものについて語らない」傾向があるということであるような気がする。
気がするというようなあやふやな言い方をするのは、今回、話を聞いたのが、わすかな人たちからだからである。
対象そのものについて語らないことは、聞き手に対する衝撃を避けるために、否定的な意味を含む語句を他の語句に置き換える、「婉曲法」に似ている。
婉曲法は、'substitution for an expression that may offend or suggest something unpleasant to the receiver, using instead an agreeable or less offensive expression, or to make it less troublesome for the speaker'という意味では、ユーフェミズム(euphemism)である。
日本語で、婉曲的な表現といったときに、結婚式で、別れるとか割れるという表現を避けることも、その範疇に入るのかもしれない。
そうした言葉を使うと、言われたことがそのうちに実現すると考えられて、「
忌み言葉」として避けられるのである。
なぜだろう、言葉そのものに、物事を実現する力のようなもの、すなわち言霊のようなものが認められていることと関わるのだろうか。
このあたりのことについて詳しいことは知らないが、プナンの実践は、超自然的という意味では、
日本語の「忌み言葉」の実践に少しだけ似ている。

ジュラロンのプナンは、狩猟に出かけて、動物がいたらその動物の名前を呼ばないし、必要であれば、動物の名を別のものに言いかえる。
マメジカ(pelano)なら「細い足首(sik beti)」と言い、シカ(payau)なら「長い太もも(buat pakun)」、赤毛リーフモンキーなら「赤毛(nebara bulun)」と言いかえるのだという。
また、料理をしているときに、料理をする(matok)という言葉を使ってはいけないとされる。
魚を似ているときに、そのことを言ったら、
魚はいつまでたっても煮えないのだと言う。
プナンは、だいたい、以下のように説明する。
本当の動物の名や、料理するという語句が、ウガップ(ungap)=邪霊に聞かれたならば、邪霊によって、人間の意図が阻まれるのだ。
ウガップは、一般に、人間の行いの成就を阻む存在として、恐れられている。

すると、対象そのものについて語らないという言語実践は、わたしたちが心得ているような
婉曲法とは、かなり異なるものであるということになる。
婉曲法は、基本的に、人が人に配慮するものであるが、プナンの「婉曲法」は、人が霊に対して配慮するものでもある。
この点は、きわめて重要であると思う。
プナンにとって、世界は、人と人によって成り立っているのではなくて、人と人、人と霊(目に見えない存在)、さらには、人と動物も含めて成り立っていることを示しているからである。

人の行動や人の意図を読み取ろうとする邪霊に聞かれることがないように、プナンは、対象そのものものについて語ることがない。
つまり、そこでは、世界は、人間存在と人間以外の存在から成り立っている。
おそらくは、それは、長い間に人類社会で培われたふつうの考え方であったと思う。

ひるがえって、実証的な合理主義によって葬り去られたのは、人間と非・人間からなる
世界ではなかったのか。
人と人の間だけの「社会」が、わたしたちの世界の中心に位置づけられている。
覚書として。

(ジェラロン川にムカパン川が注ぎ込むところにあるプナンのロングハウス。ここに3泊した。)