たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

計画停電に思う

2011年04月04日 21時03分05秒 | フィールドワーク

帰国して6日、日本の状況がようやくわかってきた。
その間、計画停電は一度もないが、想定外の自然災害だったとはいえ、電気に慣れた
我々にとっては厄介なことである。

3月に調査地のプナンを訪ねたとき、高台の上に、マレーシア連邦政府の巨額の資金援助によって、かわいらしいピンクの家が建てられていた(写真)。
水道はパイプから敷き、電気は発電機で起こすのだという。

出来上がったら、キリスト教式の礼拝をやってから引っ越すので、そうだ、ブラユン、今度来るときには、薄型テレビを持ってきてくれよ、と言われた。
一方で、現在のところ、発電機は壊れていて、現在住んでいるロングハウスには、この数か月ずっと、電気はなかった。
わたしの知る限り、中国製の発電機はすぐに壊れるし、木材企業から無償で提供されるガソリンもすぐに無くなり、電気のある夜は、年にトータルで数週間程度である。
それでも、なんら人が生きてゆくのに支障はなく、
夜にはランブや蝋燭を灯して、話をし、眠くなったら蚊帳のなかに潜り込んで眠るという暮らしをしていた。

電気は、あればあるで、その快適さに慣れっこになってしまい、急に無くなると、困ってしまうようなものであるにちがいない。

日本の夏の計画停電というのは、想像してみただけで、汗が噴き出てきて、ぶっ倒れそうである。
道が舗装されていて、ヒートアイランド化するので、
電気があって、エアコンがなければ、日本の家屋は、暑熱を乗り切れないのではあるまいか。
だいたいにおいて、この国では、電気が公的に安定的に供給されるという前提の上に、建物・家屋は設計されてきた。

我々文明人は、いまから、電気のない生活などに戻れやしないのだろうな。
いっそ、プナンのような藁葺やビニールシートをかけただけの小屋に住むならば、地震で倒壊した
としても、それほどの怪我をしないのだが。
陽が昇れば起きて、沈めば寝るというような
原始に戻れやしない、だから、エネルギーを安定的に供給することだけにしがみつくしかない。
ああ、なんと憐れな、悲しき、我々文明人よ。

でも、余所では、こんなことは、あまり言わないようにしよう。