たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

2011年04月10日 20時32分08秒 | エスノグラフィー

遠くの空の下へお嫁に行かれたその方と初めて会ったのはいまからおおよそ四半世紀も前のことであるが、歴史と由緒のある日本の地方都市から志を立て、アメリカ留学して、その後、ある航空会社の国際線のフライト・アテンダントをしておられたのだが、学生時代に、ジャーナリズムを専攻していて、アフリカやアジアを旅して、ナイジェリアのキクユなどアフリカの諸民族のことや、レヴィ=ストロースの『野生の思考』だの、川田順造の『無文字社会の歴史』などの著作について、文化人類学の原液を最初に私に注ぎ込んだ、築地に住むわが友が、外遊中にお金がスッカラカンに無くなってしまって、パンツを買うお金もないとのことで、とある外地で、その方にお金を借りたのがきっかけで、わが友が借りたそのお金を返すのに付き添って、都内の某所でお会いしたのであるが、大学を出て一応の職を得る一方で、酒を飲み無益な言葉を吐き流し無駄に本を読み、その後に進むべき道を懊悩煩悶しながら考えあぐね、いくぶん停滞乱調気味であった私(たち)の前に現れたその方は、凛としていて、颯爽としていて、先見的で、頭脳が明晰で、経歴と職業柄、「世界」について知っていて、わが理想のずいぶん先を行っていることによって、わが身の凡庸さが際立つような気がしたが、その意味で、いまから思い返せば、その方の振る舞いに、その後曲折することになるわが行動は大いに励起鼓舞されたのであるが、やがて税理士へと転ずることになるわが友・例の「パンツ氏」とよりも、いくぶん言葉少なめの私のほうと波長が合ったのかどうか分からないが、フライトで成田空港に降り立ち、ふいに、山手線内にあるわが庵としてのトイレ付、風呂なしの築30~40年の木造アパートの二階の部屋に来られたりして、そこに荷を置くなり、銭湯に行ってきま~す、というような闊達な行動が、その方の軽やかなる自由人的な気質の片鱗を表していたはずであり、その方の進取の気性とともに、私は念を心深くに抱いていたのであるが、いったいどんな話をしていたのかは、いまとなってははっきりしないが、そうこうしているうちに、その方は、ある国の首都に、仕事で駐在することになり、その間、たったの数か月くらいの出来事であったが、これまた、詳しくは覚えていないのだが、インターネットやケータイなどの便利がなかった時代、後々、手紙の文通という奥ゆかしい交信を続けていたのであろう、それから暫くして、その方から、その国のさる御曹司との結婚が決まったという外国郵便が手元に届けられ、私もその婚礼の宴の席に並ぶために、いまだ一度も訪ねたことがなかったその国へと飛び、一友人として婚儀に参加するとともに、彼女の嫁ぎ先の家族が所有する首都にそびえる大ホテルのスイート・ルームに宿泊させてもらっていたく感じ入り、その後には、そのころ勤めていた海外貿易を生業とする会社を退職し、無為なる放浪の旅をしばらく続けたこともあり、他家に嫁入りされたその方と密に連絡を取るということもなくなり、音信はぷっつりと絶えることになったのだが、時は荒々しく過ぎてゆき、最近になって、20数年ぶりに、ひょんなことから、SNSでその方の足跡を見つけて交信するようになり、このたび帰国された機会にお会いしたのだが、新宿の雑踏のど真ん中にある待ち合わせの場所で、ある昼下がり、その20数年という時の隔たりは、一瞬、たしかに消えてなくなったかのようであり、その方の来し方の幸福と、語るに難い受難と激動と、その果てに残った大切なる宝物をめぐる獲得とその現在の物語に漂う言葉に耳を傾けながら、そうしたその方の軌跡は、はるか20数年前のあのころから、あらかじめ、当時の行動のなかにすでに深くくっきりと孕まれ、刻まれていたのではないかと感じたが、そうした運命論に浸っていると、私は、自分がいまの時代から当時を顧みているのか、20数年前の時代からそのことを予想しているのか、あるいは、その両方の時代のどこかにいるのかはっきりしなくなり、神秘的な感覚のくろぐろとした海を漂っているかのような気分になったのであるが、同時に、海外放浪を経て大学院に行き文化人類学を学び大学で教えるようになったと、わずか30数文字で、とりあえずまとめられるであろう、ちっぽけで、何の社会的役割も担っていない罪深き自分史がふいに浮かんできて、今度は、この20年間のわが出来の戯言を話しながら、それでも、あのころから、ずっと人間の根源の姿を求め続けているというようなことを述べると、その方は、ロマンティックなのねえと一言評したのであるが、まさに、それは日頃感じている、人類学者=ロマン主義者であるという、わが自己評価にほぼ等しく、その間、長い時を経て培われたものであっても、必ずや、その根や種が、あらかじめ、どこかにあったり、播かれているのだという断定調のイメージが、行きつ戻りつ波打ちながら私に打ちつけていたのだが、そのようにして、我々の間にじっと押し黙ったまま置かれている時の経過は、何ほどでもないものとしてことごとく消え去るとともに、同時にずっしりと重く、取り返しのつかない何かとして、わが身とわが心に圧し掛かっていたのであり、その日は、車で、町田から新宿に出かけてきていたが、都内の襤褸たるアパートと、まだ何者でもなく何になるのかも定かでなかった時代のことが懐かしくほのかに思い出され、その方には、桜の開花を見るかたわら町田にあるわがオフィスへとその方を案内し、私的な現在の破片を見せたいという思いにしだいに心が傾いてゆき、それならば、そうしようということになり、桜の美しい林は、いままさに満開のころあいであったのに、例年よりもボリュームに欠けており、そのくぐもった咲き様は、なんとなく憂いを含んでいたように感じられたのであるが(写真)、桜の並木道をくぐりぬけ、オフィスにはほんの一瞬立ち寄っただけであったが、その後に、近年、しばしば出かけることがある、豪奢なたたずまいのカフェにも足を伸ばし、私は熱帯に暮らすある人びとの原始的な暮らしを激烈な文体でつづりたいと願っているのだが、なかなか思うように筆が進まないというような、取るに足らないわが物書き計画とその現在の頓挫について話すと、その方からは、あら、インディー・ジョーンズのようね、という感想が漏れ、彼は考古学者だけど、そういえば、しょっちゅう海外の僻地に出かけているし、それは、なんだか宝物探しにも似ているなと感じながら、ふたたび、そこから一路新宿まで取って返し、道々、その方の興に応じて、性の誕生秘話から発情徴候を失ったヒトの性、トロブリアンド・アイランダーズの驚くべき性観念に至るまで、「セックスの人類学」を講し、その日は、「ヨーヨー人間」(ピンチョン)のごとく、中央フリーウェイを二往復突っ走ることになったのであるが、夜には、震災後、節電のためやや暗くなったように感じられる新宿で、若きFtM(おなべ)たちに、男性ホルモン注射について恋情について玄妙なる話を聞き、新宿に古くからある老舗のラーメン屋に腹ごしらえに行き、夜になって、急に冷え込んだ靖国通りを御苑まで歩いて、そのせいで、翌日、私は風邪をひいてしまったのだが、最後には、その方が、故郷に戻るための夜行バスに乗るのに間に合うように、西口のターミナルまで出向き、バス待ちの群れをかき分けてツアー会社の集合場所にたどり着き、別れたちょうどそのとき、11時32分、久しぶりに、大きな地震が東日本を襲ったのであるが、歩行中だったせいか、ニュースで聞くまで、私にはその揺れはまったく感じられなかったのであるが、人と人との出会いが醸し出す陰影をめぐって、それ以降、わたしの心は激しく揺さぶられたままなのである。