たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

動物人類学

2007年10月14日 22時02分02秒 | 人間と動物

わたしの父は、動物好きだった。祭りの夜店で、ヒヨコや金魚などをよく買ってきた。あるとき、飼い育てていたニワトリがいなくなった。見ると、ニワトリ小屋の扉が無残に引きちぎられていた。しばらくすると、近所の奥さんが、飼い犬が、どうやらお宅のニワトリを食べたようだと、謝罪に来たことがあった。父は、ニワトリの次には、ウサギを飼った。ウサギが死ぬと、秋田犬を飼った。そのイヌは、よく鎖をちぎって逃亡し、近所の人たちを脅かした。一度、そのイヌが不意に目の前に現れて、びっくりしたおじさんが、ひっくり返ってケガをしたことがあった。そのときは、母と祖父が謝罪に行った。そのイヌは、その後、あっけなくフィラリアにかかって死んだ。すると、父は、また、どこからか仔イヌをもらってきた。母は動物好きだが、仕事が忙しく、世話を家族に任せる父に対して、仔イヌを返してくるように言った。数日間我が家にいたその仔イヌは、いつの間にかいなくなった。

動物がつねに周囲にいたにもかかわず、わたしは、物心つき始めた頃から、動物がどうも苦手だった。イヌがいると、吼えられるのが怖くて、そばを通り抜けることができなかった。それどころか、イヌやネコに触れるのもイヤなほどだった。まともに触れることができなかった。妹たちに任せて、家で飼い育てた動物たちの世話もしたことがなかった。おそらくその延長線上で、わたしは、ニワトリの手羽先をまったく食べることができなかった。骨付きの肉に触れることができなかった。いまにして思えば、幼い頃のわたしは、むき出しの動物におびえていたのではなかったのか。わたしをやさしく包み込んでくれる親や近くに住んでいた両親の親たちとはちがって、何をしでかすか分からない隣人としての動物に。

人間と動物をめぐる考察をつづけているうちに、そのような動物をめぐる原経験に、ふと思いいたった。

新石器革命以降、人間は、動物の家畜化を進め、屠畜することで、食料として、動物肉などを安定的に手に入れるようになった。今日、わたしたちの食卓に運ばれることを目的として、動物は一ヶ所に集められて、大量に飼育され、屠畜され、食肉加工されている。19世紀には、博物学の進展を背景に、近代的な動物園が創設されるようになった。動物は、世界中から動物園という場に集められて、近代市民の観察のために提供されてきた。人間は、知識と技術を用いて、スポーツ狩猟、毛皮交易、動物実験や見世物および観察の対象として、動物を取り扱ってきたのである。日本の農村では、古くは江戸時代から、イノシシやサルなどによる獣害の問題が深刻化してきた。動物は、農作物を荒らすならば、害獣として駆除の対象となる。現代日本のペット人口は1000万頭に達するとされる。動物は、家族の一員として愛玩され、ケアや葬儀の対象ともなっている。その一方で、毎年約50万頭の動物(イヌやネコ)が捕獲されたり、行政施設に持ち込まれたりして、殺処分されるという現実がある。20世紀後半になると、動物には、人間から搾取されたり、残虐な扱いを受けたりすることなく、動物の本性に従って生きる権利があるとするアニマル・ライツという考え方が、地球上で、広く受け入れられるようになった。

人類は、いつの頃からか、自然界のたんなる一員から、それを支配する存在として自らを位置づけるようになった。人間は、もはや動物にして、動物にあらず、という態度を貫くようになったのである。ヒトだけが、動物の生殺与奪の権利を手に入れた。

<驕り>ということばが思い浮かぶ。

 中学生のころに、わたしが生まれ育った地方都市にロードショーでやって来た『デルス・ウザーラ』という黒沢明監督の映画を見たことがある。あまりはっきり内容は覚えていないが、ロシアの探検家・軍人アルセーニエフが、原住民の猟師デルス・ウザーラに出会い、探検の道案内をしてもらうという内容である。
映画のなかでは、探検家とデルスの友情がつづられる。わたしが興味を引かれるのは、デルスが、自然の真っ只中に暮らす人間だという点である。

・・・夕食の時、私(アルセーニエフ)は肉の小片を焚き火に投げ入れた。これをみてデルス・ウザーラはすぐさまそれを火からとりだし、わきのほうへほうった。「どうして肉を火に投げるのかね?」彼(デルス)は、むっとした口調で言った。「どうしてただ焼いてしまうか。わしら、あした去る。ここへべつの人、くる。そして食う。火に入れると、肉、なくなる」「ここへ誰が来るかね?」こんどは私がきいた。「誰がだって?」彼はおどろいた。「タヌキがくる、アナグマがくる、カラスがくる、カラスがいないと、ネズミがくる・・・」私ははっきりわかってきた。デルスは人間ばかりでなく、た
とえアリのような小さなものでも、あらゆる動物について心配していたのだ・・・(アルセニーエフ著『デルス・ウザーラ』、田口洋美『越後三面山人記』農山漁村文化協会、2001より孫引き)

そこには、人間もまた動物の一部であり、わたしたちは動物と食べ物を、自然を、世界をシェアーする存在だという思想の一端が描かれている。
たんに、ことばによる理想だけが語られているのではない。デルスの実際の行動のなかに、理念が畳み込まれている。人間のよりよい生存を、動物の利用および犠牲によって実現しようとする、ヒト中心主義的な思想について、わたしたちは、いまふたたび問い直してみるべきなのではないだろうか。

 ところで、ヒト中心主義には、上述したようなもの以外にも、別のモデルがあるといわれる。それは、同じくヒトの利益を優先している点で、ヒト中心主義的ではあるが、自然や動物に対する畏怖に支えられて、「人間の非人間的世界への比喩的投影による拡大認知」という特徴をもつアニミスティックなモデルである(川田順造「ヒト中心主義を問い直す」『人類学的認識論のために』岩波書店、2004)。それは、ふつうは、人間の生存のための動物の殺害という撞着を身に受けながら、自然を擬人化したり、動物との交渉を行ったりするような宗教や儀礼、生業実践などとして現れる。

文化人類学は、これまで、非西欧の諸社会、あるいは、「先進」とされる社会の基層において認められるのだけれども、当事者によっては体系的に自覚されたり、思想化されたりしていないような、そうした、漠然と「アニミズム」と呼ばれるような自然観の記述と解明に努めてきたということができる。

動物に関して言うならば、文化人類学は、
これまで、とりわけ、人間が動物をどのように表象するのかに着目してきた。レヴィ=ストロースは、『野生の思考』のなかで、人間が、動物と親密な関係をもって世界を組み立て、命名することによって、自然にとりまかれ、交渉しながら、暮らしていることを解明した。『神話論』では、北南米の神話のなかに、文化と自然との関係を読み解いた。ダグラスは、レレ社会の豊穣多産を祈願する儀礼においてセンザンコウが多用される理由を考察し、それが分類体系から逸脱する変則的な動物であり、そのことによって神秘的な力を与えられ、人間に生殖力を与える象徴として用いられていることを明らかにした(ダグラス『汚穢と禁忌』思潮社、1972)。また、ウィリスは、牧畜民ヌアー社会では、人間と動物が対等であることを、狩猟民レレ社会では、人間が自然環境よりも劣位であることを、構造分析的な手法によって明らかにした(ウィリス『人間と動物』紀伊國屋書店、1974)。

このように、文化人類学は、 どちらかといえば、動物が象徴として用いられてきたというような事実に焦点をあてて、文化行動そのもの
を対象としてきたのだとはいえないだろうか。その意味で、文化人類学のアプローチは、「自然と深いかかわりをもつ人びとをみずからの研究対象とすることを誇りにし、そうした人びとがはぐくむ自然観や知識を把握することをモットーとしてきた生態人類学」(秋道ほか編『生態人類学を学ぶ人のために』、世界思想社、1995, p.4)と、好対照をなす。動物はどのように文化のなかに組み入れられているのかという面に着目してきた文化人類学。他方で、動物の知識をベースに組み立てられる自然観に着目してきた生態人類学。二つの領域の建設的な融合は、人間と動物の関係をめぐる研究を強力に前進させることになるのではないだろうか。とりわけ、ヒト中心主義から構成される現代世界の人間と動物の関係について、深く考えてみるために。

(写真は、捕れたイノシシをかつぐプナン人の男性)


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (K)
2010-11-24 01:44:20
こんばんは。

最近ロイ・ウィリスの「人間と動物」を読みました。ヌアー族にとっての去勢牛・レレ族のセンザンコウ、フィパ族のニシキヘビといった象徴的意味を担った動物は、産業世界の高度に文化した諸社会ではみることはできないのでしょうか。
私は犬や猫をはじめとする「ペット」というカテゴリーに入れられる動物が象徴的な意味を担っているのではないかと考えました。しかし、ペットを語ろうとすると、どうしてもかわいい、癒しということから逃れられないというか、それ以上のことが出てこないように感じてもいます・・

長くなってしまいすみません。
失礼致します。
返信する
Unknown (たんなるエスノグラファー)
2010-12-09 10:25:25
高度産業化した社会における動物の象徴的意味について。たとえば、日本ですね。おっしゃるように、ペット(愛玩動物)が、かわいらしさやほのぼぼとしているという象徴性を帯びているということもできるように思います。熊は里に出没して人を襲う獰猛性と、テディベアのようにかわいらしさ(?)という、両義的な意味をもっているのかもしれません。ミッキーマウスはネズミだし、ピカチューもネズミ(?)。探せば、いろんな動物がキャラクターグッズに使われているし、そのことによって、何らかの意味が運ばれているのかもしれません。いま思いついたのは、日本では太っていることをどうして「ブタ」のようだというのでしょうね、プナンにはブタがいないので、そういう言い方はしません。太っていることを、動物に例えることはありません。そういえば、わたしが高校生のとき「ウシ」と”陰で”呼ばれている女の子がいました。
返信する

コメントを投稿