そのころ花のことを想っていた。クアラルンプールの空港内でひときわ華やいだ雰囲気を漂わせている人たちがいた。ポリネシア人だと思う。フランス語が聞こえてきた。女たちのうち何人かが、若くても年増でも、プルメリアだか蘭だか分からないが、花を髪に飾りつけていた。そうした習慣は、超自然的な世界との関わりで、呪力を得るためのものであるとどこかで聞いたことがあるが、そんなことはそのときにはまったく思い浮かばず、わたしは、女たちの花飾りに匂い立つような美しさを感じた。
花を愛で、花を飾り、花に意味を与えたり受け取ったり、花を贈り、花をイコンとして用いるということは、いったいどういうことなのだろうか。ふとそう思った。プナンはどのように考えているのだろうかと。
花は、プナン語ではブンガ(bunga)という。マレーシア・インドネシアの諸語に広く共通する語である。ngebunga という語があるが、それは「飾りつける」という意味である。しかし、プナンには、花そのものを髪や身体につけたり、空間に飾りつけたりする習慣はまったくない。さらには、花を贈る習慣もない。花のそれぞれに特有の意味を与えるようなこともない。栽培や飼育を毛嫌いするのではないにせよ、自然に手を加えたものを一段低いものとして見ているプナンは、けっして、鑑賞するために花を育てたりするようなことはない。近隣の焼畑民のロングハウスの庭に、観賞用に植えられた花には、彼らはほとんど関心を示さない。言ってみれば、プナンは、花に関してほとんど価値を置かないし、その意味で、花の文化がないと言えるのかもしれない。
花はジャングルのなかにはない、とプナンは言う。じっさい、鬱蒼としたジャングルのなかに花を見かけることはほとんどない。花はふつうジャングルが終わる場所に咲いている。わたしたちが、フラワーガーデンなどで、しばしばうっとりとするようなかたちで咲き乱れ、咲き誇っているのを目にするような花々に出くわすことはない。熱帯の熱暑に向かいながら、ひっそりと、しかしながら精一杯、ジャングルの終わるところで咲いているというのがわたしの印象である。そこでも花は、蟲や鳥についばんでもらって、花粉を遠くに運んでもらうために、周囲から突出して、自らを目立たせるために咲いている。花に魅かれるのは、人間だけではなく、すべての生き物なのである。花は、いわば、ジャングルの範囲をどんどんと押し広げてゆくための先遣隊として、ジャングルの入口に自らを開く。
花の文化に関しては貧相なものの、プナンは、やはり花を美しいと言う。その意味で、花に魅かれている。プナン語で、美しいは、jiannaat。 jian は「よい」、naatは「見る」。つまり、見てくれがいいことが、彼らにとって美しいことである。プナンは、こういう言い方もする。Siah kau ju naat? 「おまえは誰に会いたいのか(見たいのか)?」、つまり、会うことは見ることである。つまり、美しいとは、基本的には、わたしたちが出会う素晴らしい事態なのである。
プナン人の数人に、もっとも美しい花は何かと尋ねたところ、一様に、lake tulang という答が返ってきた。lakeは「ロタン、籐」のこと。tulangは「骨」のこと。「骨の籐」という名の花だという。ある一日、それを見に出かけた。ジャングルの入口に咲いていた。白い花。なぜ、それが「骨」と呼ばれているだろうのか。彼らは、知らないと言ったが、わたしはなんとなく直観で分かった気がした。それは、咲き乱れているのでも、咲き誇っているのでもなく、まばらに、ひっそりと、「骨」のような色をして、咲いていた(写真)。