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第五回「自然と社会」研究会報告
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1949年に書かれたレヴィ=ストロースの「自然と文化」は、いまもって、自然と文化、自然状態と社会的状態を考える上で、きわめて示唆に富んでいる。先史学や霊長類学のその後の発展が、論述内容の緻密さを格段に高めているにもかかわらず、レヴィ=ストロースの思考は、いささかも揺らぐようなことないように見える。自然とは、人間のもとにある普遍的なものであり、他方で、文化とは、規範に拘束されるものであるという言い回しには、古びた感じがまったくしないどころか、新しい感じさえする。
最初は、社会組織をまったく欠いていた人類が、その後、文化の形成に不可欠なさまざまな活動の形態を発達させるようになった。その意味で、自然状態から社会状態への移行という人類進化の一局面は、難題である。言語活動、石器加工、埋葬儀礼などを行っていたネアンデルタール人たちは、自然状態で生活していたとは考えられないが、後続する新石器時代の人類からは、絶対的に分かたれる。人間は、一個の生物であり、同時に、一個の社会的個体なのである。
外的・内的刺激に対する人間の応答には、人間の本性(瞳孔反射など)に由来するものもあれば、人間が置かれる状況(手綱に触れるや即座に定まる旗手の手の位置)に由来するものもある。いったい、どこで自然は終わり、どこで文化は始まるのであろうか?隔離状態における新生児の応答は、心理―生物的起源に根ざし、後発の文化的総合には由来しないと仮定できるが、隔離状況はそもそも文化的環境に劣らず人為的である。また、数々のデータから類推すれば、「野生児」「オオカミ少年」「ヒヒ少年」もまた、文化的な怪物であって、どう転んでも文化以前の状態の忠実な証人ではない。要は、人間のなかに、文化以前的性格を帯びた行動類型の例証を見出すことはできないのである。つまり、自然と文化の境界を、どこかにはっきりと定めることは不可能なのである。
それでは、動物の生活の高度な水準から出発して、文化の輪郭、文化の前兆と認めうる態度や現象をつかむことは可能であろうか?類人猿には、単語を分節できるようになるものもあり、ある程度までなら道具を使いこなすことができるが、それらの兆候はすべてもっとも原初的な現われの域を出ず、しかも根本的な不可能性であるかのように見える。つまり、巧みな観察を無数に重ねることで埋められるかもしれないと思われてきた溝は、逆に、一段と飛び越えがたいものとして現れてくるのである。
しかし、それよりも格段に重要なことは、サルたちの社会生活には、明確な規範を形成する準備がまったく整っていないということである。大型ザルでは、哺乳類に見られる本能的なふるまいが弱まっているが、代わりに新しい平面でなんらかの規範をつくるところまではいけない。本能(=自然)が弱まる一方で、自然が去ったあとの領域は更地のまま残されている。
じつは、こうした行動における規則のなさが、自然過程を文化過程から区別してくれるもっとも確実な基準となる。いいかえれば、制度的規則について、その起源を自然のなかに求めようとすることに、そもそも推論の誤りがあるのだ。要するに、自然と文化が連続しているとの誤った見かけに、二つの次元の対立地点を明らかにするように求めることはできないのである。そういったことから何が言えるのかというと、その場に規則が現れるなら、例外なく文化段階にいることになり、他方で、自然の判別基準は普遍的なもののなかに認められることになる。
人間に共通する恒常的なものは、習俗、技術、制度など、人間集団の相違と対立を形づくるものの領域外にある。それゆえに、以下のように仮定することができる。人間のもとにある普遍的なものはなんであれ自然の次元にあり、自然発生を特徴とする。他方で、規範に拘束されるものは文化に属し、相対的・個別的なものの属性を示す。そのうち、インセスト禁忌は、規範および普遍性を、いささかの曖昧さもなく、しかも不即不離のかたちで示す。インセスト禁忌が、なぜ規則であって普遍性という性格をもつのかというと、いかなる婚姻型も禁忌とされない集団があるかというと、そんなものは絶対にありはしないからである。したがって、それは、自然的事象のもつ特徴的性格と文化事象のもつ特徴的性格を同時に示すのである。
(プナンの夜のハンティングトリップ)
「野生児」、「オオカミ少年」、「ヒヒ少年」と言った「証人達」も、隔離状況と言った状況そのものが文化的に劣らず人為的であり、普遍的な「類似」の連鎖の地平から「タブロー」(表の空間)にはめ込められ、飼いならされた自然である。言い換えれば、既にメタ認知的な分割が行われ、「規則」を持った目的論的意思が内在してしまっている時点で、もはや自然ではなくなってしまっているのである。
それに対して、サルたちの社会生活には、明確な規範を形成する準備が整っていないという。こうした特質における「規則のなさ」こそ、自然過程を文化過程から区別してくれる確実な基準となるのである。
それは自然と文化が連続しているという「誤った見かけ」を断罪することを意味するとともに、一度、「規則」が現れたら、例外なく文化段階にいることになり、他方で、自然の判断基準は普遍的なものに認められる。すなわち、人間のもとにある普遍的なものは、「自然」の次元であり、規則に拘束された時点で、それは「文化」に属し、自然ではないのである。
様々な規則に遵守された自然遺産や自然公園は、あくまで、文化的な構築物にしか過ぎず、我々は厳密な自然を見出す事は既にできなくなってしまっているのかもしれない。