たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

『賜物』

2010年09月19日 13時23分29秒 | 文学作品

ナボコフ『賜物』、沼野充義役、河出書房新社(2010-31)★★★★★

ナボコフが、雪崩を打ってわたしのなかに入り込んできた。この一週間、特にこの数日、わたしは、主人公フョードル・コンスタンチノヴィッチ、(ナボコフ自身は「英語版への序文」において否定するものの)ウラジミール・ナボコフの化身とともに、長い旅を続けてきた気がする。ある種の放心。ナボコフは、豊かな知識や文才、美しいものを見ると
詩が突いて出てくるような、豊かな情緒という「賜物」に恵まれた、かぐわしい人物だったのではないかと、この本を読んで、個人的に勝手に思い込んでいる。この本を読もうと思ったのは、偏愛だけでなく、知性や緻密さ、滑稽味などがぎっしりと詰まった『ロリータ』を読んで、もっともっとナボコフとお近づきになりたいと思ったからである。
http://blog.goo.ne.jp/katsumiokuno/e/73a3d6824ed6eb54d00522b0dfaee96e

『賜物』は、『ロリータ』よりも15年前、ナボコフが39歳のときに、ロシア語で書いた長編小説である。『賜物』には、すでに、『ロリータ』の構想がはっきりと見られる(ということは、しばしば指摘されることである)。下宿先の女主人の再婚相手の小説のネタの話。

例えば、こんな話はどうでしょう。ある老いぼれ野郎がーとはいっても、まだ男盛りで、情熱の炎も燃やし、幸福も渇望しているんですがねー後家さんとお近づきになる。後家さんには娘がいるんだが、これがまだちっちゃな女の子でね、まだ体もできあがっちゃいないのに、その歩く様子といったら、もう男の気を変にさせるほどのものがある。色白で、きゃしゃで、目の下に青い隈があってーそれで、もちろん、くそじじいには目もくれない。どうしたものか?そこで老いぼれはのんびり考えていないで、さっと後家さんと結婚しちゃうんですよ。じつにけっこう。さて、三人の暮らしが始まった。そこには際限もなく書くべきことがあるー誘惑、永遠の拷問、うずくような欲望、狂おしい望み。しかし、結局のところ、計算ちがいだったということになる。時間が飛ぶように過ぎていき、奴はますます老いぼれいき、彼女は見事な花になる。しかし、どうにもならないんだな、これが。目の前を通り過ぎるときだって、軽蔑のまなざしで人を焼き焦がすくらいなんだから。さあ、どうです?ドストエフスキーの悲劇の感じでしょう?この話はね、むかしむかしある王国で、あるサモワール国で、伝説のゴロフ王の御代に、私の大の親友の身に起こったことなんですよ、いかがかな?(292ページ)。

『ロリータ』じゃないか、まったく、この話は!さらに、もうひとつ。フョードルの砂浜での水浴の場面。

平日なのでまばらだったとはいえ、程度の差こそあれオレンジ色をした体が見受けられた。牧神から阿呆の世界に移ってしまうことを恐れて、彼は覗き見をしないようにした。しかしときおり、学校の鞄と、木の幹に立て掛けられ輝いている自転車の脇で、少女の姿をした妖精(ニンフ)が横たわり、腿の付け根まであらわになったなめし革のように柔らかな脚を広げ、両肘を折り曲げ、太陽に自分のきらきら光る脇の下を見せつけていることもあった・・・(532ページ)。

さて、『ロリータ』以前の『ロリータ』、あるいはハンバート・ハンバートの原像はこのくらいにして、『賜物』のあらすじ。1920年代のベルリン。ロシアから亡命してきた20代の青年フョードルは、詩集を刊行したばかりである。1章では、その時期のフョードルの
ベルリンでの暮らしが綴られる。2章では、中央アジアの探検旅行に出かけたまま行方不明になった鱗翅類学者である父への思いと、幻想のなかで、その父と旅をするさまが語られる。3章では、下宿の立ち退きを余儀なくされたフョードルが、新しい下宿先で、女主人の娘ジーナと出会い、恋に陥る話が綴られる。他方、フョードルの文学に対する熱情が、全編をつうじて、あちこちで語られている。4章では、『チェルヌィシェフスキーの生涯』というフョードルによる伝記が、そのまま小説中小説として、置かれている。5章では、芸術を社会の現実以下のものと見なしたチェルヌィシェフスキーを愚弄する、彼の著作に対する書評や批評が、フョードルのもとに届けられ、下宿の女主人夫婦が引っ越すことになって、ジーナとの恋愛関係の進展の兆しが示されるところで終わっている。

けっして読みやすい話ではない、長いということもある。ところが、ナボコフを知ってしまったからには、彼の独特の言い回しを見つけて歓喜し、その表現のなかに飲み込まれてゆくという感じなのである。そうした幾つかを取り上げて、評してみたい。

一つめは、物語の初めにいきなり炸裂するストーリー。詩集を刊行して、その評判が気にかかるフョードル。友人のアレクサンドル・ヤーコヴレヴィッチ・チェルヌィシェフスキーから電話がかかってくる。

・・・第二に、君におめでとうと言いたいんですよ。えっ、何だって、まだ知らない?本当に」(「まだ知らないんだそうだ」と、アレクサンドル・ヤーコヴレヴィッチは電話の外の誰かに、自分の声の反対側を向けた」)。「それじゃ、いいかい、これから読んであげるから、落ち着いてよく聞きなさい。『出たばかりのこの詩集は、今のところまだ無名の著者、フョードル・ゴドゥノフ=チェルデンツェフによるものだが、じつに輝かしい現象であり、著者の詩的才能には疑問の余地はなく・・・』いや、ここで止めておこう。今晩のうちに来てくれたら、書評の前文を読んであげるから。いや、フョードル君、いまは何も教えてあげませんよ、どこに出た書評かとか、何が書いてあるかとか。ただ、私の考えが知りたいのならば、そう気を悪くしないでほしいんだがね、こりゃちょっと褒めすぎだな。じゃ、来てくれるね?けっこう。待っていますよ」(14~15ページ)

そわそわと、心躍らせ、あれこれと思いをめぐらせるフョードル。アレクサンドル・ヤーコヴレヴィッチの家へ。


走りながら、手に持った新聞をひらひらさせていた。
「ほら」口の一方の端を凶暴にぐいと下に引いて、彼は叫んだ(顔の痙攣は息子が死んで以来のこと)。「ほら、見てごらん!」
「結婚したときは」とチェルヌィシェフスキー夫人が言った。「もっと繊細な冗談を言う人だと思っていたんですけれどねえ」
フョードル・コンスタンチノヴィッチはその新聞がドイツ語のものだと見て驚き、ためらいがちに手に取った。
「日付だよ!」アレクサンドル・ヤーコヴレヴィッチが叫んだ。「日付を見てごらん、きみ!」
「見ていますよ、四月一日でしょう」とフョードル・コンスタンチノヴィッチは言って、ため息をついた。そして無意識のうちに新聞をたたんでしまった。「いや、もちろん、思い出すべきでしたね」
アレクサンドル・ヤーコヴレヴィッチはげらげら笑い出した(53~54ページ)。

なんと、エイプリール・フールのドッキリだったのだ(最近あまりやらないが、昔、わたしもかなり手痛いドッキリに引っかかったことがあるのでー詳細は省略ー、フョードルの落胆はよく分かる)!こうした大真面目の裏に突如として噴出すかのような
滑稽さは、『賜物』でも、あちこちで見られる。例えば、フョードルは、ある女性の言い方のなかに、一種の弁証法を読み取る。ユーモラスである。

アレクサンドラ・ヤーコヴレヴナは番号を言ったが、その調子にはなにやら抽象的な訓戒のような感じがあり、数字の発音の仕方には特別なリズムがあった。まるで四八が定立(テーゼ)、三一が反定立(アンチテーゼ)のような具合で、そこに総合(ジンテーゼ)として付け加えられたのが「その通りよ」(220ページ)。

愛着を感じない部屋を引っ越す際の、フョードルの心の描写。ふつうなら、わたしたちは、何も言わないところだ。この滑稽さは、説明できない、説明すると野暮ったい落語の滑稽さに似ている。

読者よ、愛着を持てない住まいと別れる際の微妙な悲しみを味わったことはおありだろうか。愛しい物たちにに別れを告げるときのように、心臓が張り裂けるわけでもない。潤んだまなざしがあたりをさまようこともなければ、涙をこらえて、立ち去る場所のゆらめく照り返しを涙の中に収めて持っていこうとすることもない。しかし、魂の最良の一隅において、私たちは自分で命を吹き込んでやれなかっただけでなく、ほとんど気に留めることもないまま、いま永遠に見捨てていく物たちへの憐れみを感ずるのだ。すでに死んでいるこれらの備品が、後に記憶の中で蘇ることはないだろう・・・(225~226ページ)。

ポーシキンの口癖について。

・・・おぞましい感じがするほど小柄で、ほとんど携帯用と言ってもいいくらいのサイズの弁護士ポーシキンにいたるまでーちなみにこの弁護士は、人と話していると「スープを飲む」の代わりに「ソープを飲む」とか、「狂っている」の代わりに「こるっている」などと発音し、まるで自分の苗字がプーシキンから少しずれていることの言い訳をしているかのようであった・・・(512ページ)。

フョードルは、砂浜で水浴びをしている間、
森に置いておいた衣服を盗まれて、パンツ姿で町を歩く。警官に呼び止められて職務質問され、警官とフョードルのやり取りがなされるが、その会話のなんと滑稽なことか!

若い警官が新聞の売店からゆっくりと身を引き離し、彼のほうにやって来た。
「そのような恰好で町を歩き回ることは禁止されている」と彼は、フョードル・コンスタンチノヴィッチの臍を見つめながら言った。
「全部盗まれたので」
フョードル・コンスタンチノヴィッチが簡潔に説明した。
「そんなことが起こってはならない」と警官が言った。
「そうです。でも起こってしまった」と、フョードル・コンスタンチノヴィッチはうなずきながら言った(何人かの人たちがすでにそばに立ち止まり、興味津々の様子で会話の行方を見守っていた)。
「盗まれたのであろうとなかろうと、町を裸で歩いてはいけない」警官は苛々し始めた。
「でもぼくは、何とかしてタクシー乗り場まで辿りつかなければならない。どう思いますか?」
「その恰好では駄目だ」
「残念ながら、ぼくは煙になることも、服を体にはやすこともできないんです」
「だから言っているじゃないか、そんあ恰好で歩き回ってはいけないって」と、警官。(「前代未聞の恥知らずだ」と、誰かの太い声が後ろから注釈を加えるのが聞こえた。)
「それならば」と、フョードル・コンスタンチノヴィッチは言った。「あなたにタクシーを呼びに行っていただくしかありませんねえ、ぼくはここに立っていますから」
「裸で立っていることもやはり駄目だ」と警官が言った。
「パンツを脱いで、銅像の振りをしましょうか」と、フョードル・コンスタンチノヴィッチが提案した(549~550ページ)。

爆笑!
秩序の番人としての警官と、衣服がなくなったことで困り果て、早く家に帰り着きたいフョードルとのやり取りのチグハグさの加減。
フョードルは、究極の提案をする、そんなにこの恰好がダメならば、パンツを脱いで、銅像になってみてはどうかと。

見物人は、誰も笑わんかったんかいな?

話はずれるが、わたしは、最近、ある方の話を聞いて、その方に
滑稽を愛でる心を見出した。
引っ越した先の建設予定地で、見つけた看板に、「部外者以外立ち入り禁止」とあったそうな。
聞いた瞬間分からなかったが、打ち続く劇笑。

ところで、『賜物』の滑稽話はとりあえず終えて、話題を急転させよう。
心の描写の繊細さ、とりわけ、異性への恋心の描写に、わたしは、ナボコフへの深い愛着を感じる。

シチョーゴレフの家に越してきて、最初に彼女を見かけたとき、彼女のことはもうよく知っている、その名前も、おおよその暮らしぶりも、だいぶ前からお馴染みになっている感じがした。しかし、彼女ときちんと話すまでは、いったいどのようにしてそれを知ったのか、自分にも説明がつかなかったのだ。初めのうち、彼女を見るのは昼食のときだけで、その姿を注意深く見守り、一挙手一投足まで詳しく観察した。彼女はほとんど口を聞いてくれなかったけれども、ある種の兆候からーそれは瞳によってというよりは、まるで彼のほうに向けられたかのような目の色の微妙な変化によってだがー彼女が自分に向けられた視線にはいつも気づいているということが、彼にはわかった。彼女の身のこなしは、まるで自分が彼に与えたまさにその印象のこの上なく軽やかなベールに終始制約されている、といた風だったんだ。そして、自分が彼女の魂や生活に、どんな形であれ、関わることはまるっきり不可能だろうと思えたので、彼は彼女のうちにとりわけ魅力的なものを見て取ると胸が苦しくなり、彼女の中に美の欠陥を示すものが何でもちらりと見えただけで、ほっとして嬉しくなるのだった。頭の周りの陽光に満ちた空気の中に明るく輝きながらいつの間にか溶け込んでいく淡い色の髪の毛、こめかみの細く青い一本の血管、長く優しいうなじに浮き出たもう一本の血管、細い手首、とがった肘、腰のくびれ、肩の弱々しさと、すらりとした上体の独特の前傾姿勢ー彼女がスケートですべるようにスピードをつけて駆けだして床の上を突き進んでいくとき、まるでその床は、彼女に必要な物を置いてある椅子やテーブルの埠頭に向け微かに傾斜して下っていくようだったーこの何もかもを彼は苦しいほどはっきりと受け止めた(278~9ページ)。

こうした愛しいジーナの描写は、それと対比的な以下のような描写によっていっそう引き立てられる。あるタイプの異性たちが、神秘的な親族関係にあり、しかも、その輝きは束の間のことであるという。絶望的な欲望とは、初めから満たされないことがはっきりしている欲望のこと。こういう言い回しに心を奪われる。

フョードル・コンスタンチノヴィッチに向かってうら若い、牛乳瓶を持った娘がやって来たが、彼女はどことなくジーナに似ていた。いや、より正確に言えば、この娘には、彼が多くの女性に見出しているある種の魅力のーそれは明確なものであると同時に、無意識的なものであったーひとかけらが含まれていたのだ。そして、彼はその魅力の完璧なものをジーナの中に認めていた。だからそういう女性たちは皆、ジーナとある種の神秘的な親族関係にあるということになるが、その関係について知っているのは彼一人だったのである。もっとも、その関係の特徴を具体的に言い表せといわれても、彼にはまったくできなかったけれど(ただ、この親族関係の外にある女性たちを見ると、彼は病的な嫌悪感を覚えた)。そしていま、擦れ違った少女のほうを振り返って、ずっと前からお馴染みの、束の間しか姿をとどめない黄金の線を捕えると、それはすぐさま永遠に飛び去った。そのとき彼は、一瞬、絶望的な欲望がこみ上げてくるのを感じた(523ページ)。

ふたたび、わたしたちは、ここでも『ロリータ』のハンバート・ハンバート、あるいはその原像に出会う。いや~、今日は、まとまりのない文章を、引用でつなげながら、けっこう長くダラダラと書いてしまった。最後に、『賜物』のなかで、わたしが気に入った、魂を揺さぶられる
表現を幾つか、思いつくままに、書き留めておきたい。

最初は、例えの滑稽さ。

時計はときにその振り子で舌打ちのような音を立て、時を打つ前にはまるで力をためようとでもいうのか、なんだか奇妙な具合に深呼吸をした、チクタクと時を刻む音は、一センチごとに横縞の入った巻尺のように、ぼくの不眠の夜を果てしなく測り続けた。ぼくにとって眠りにつくことは、鼻にこよりを突っ込まないでくしゃみをすることや、自分自身の体を使って自殺すること(例えば舌を呑み込んで)と同じくらい難しかった(26ページ)。

次に、父の回想。苦悩の様子から、父の心のうちを想像する、うっとりするような表現。

そして、書斎の窓越しに、外から父の姿を覗き見たとき、その顔から受けた印象を説明する手段がぼくにはない。そのとき父は突然仕事を忘れて(父がどんな風に仕事を忘れてしまったのか、ぼくは心の中で感じ取っていたーそれは何かが崩れ落ちるか、静まりかえったような感じだったのだろう)、大きな賢そうな頭を書き物机から微かに逸らして拳で支え、頬からこめかみまで大きな皺がぐっと持ち上がっていた。父はそうやって一分ほど身じろぎもせずにじっと座っていたのだ。いまぼくにはときどきこんな風に思えることがあるーひょっとしたら父は旅に出るとき、何かを探していたのではなく、むしろ何かから逃げようとしていたのではなかったのか(180ページ)。

ジーナの元カレに対するフョードルの嫉妬の感情描写。嫉妬が、待ち伏せをしているのだ。

というのも、亡霊は名前も境遇もないほうが、簡単に消え去るということがわかっていたからだ。とはいうものの、彼に対しては、むかつくような嫉妬をどうしても感じてしまい、それを突き詰めて考えないようには努めたものの、それは、つまり嫉妬はいつでもどこかの角を曲がったところで待ち伏せしていて、いつかどこかでひょっとしたらこの紳士の不安げで悲しそうな目に出くわさないとも限らないと思っただけで、周囲のすべてのものが、日蝕のときの自然と同様に、夜の生活を始めるのだった(288~289ページ)。

言い回しに対する解釈はあるのだが、とにかくこういった言い回しへの注目に注目したい。

あるときフランスの思想家ドラランドは、誰かの葬式で、どうして帽子を脱がないのですかと尋ねられ、こう答えたというー「死のほうが先に帽子を脱ぐのを待っているんだ」(492ページ)。

そのほか、表現のレベルで魅惑的なものがまだまだいっぱいあるが、もうずいぶん書いた、書きまくったような気がする、力尽きたので、ナボコフの前で帽子を脱いで、今日はこのくらいにしておきたい。


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