たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

中上健次に耽る

2013年09月03日 11時20分41秒 | 文学作品

2013年8月中上健次に耽った.
『岬』『枯木灘』『地の果て 至上の時』の紀州熊野三部作.
『岬』はいまから20年ほど前に読みはじめた瞬間に挫折し長い間放ったままだった.

母と姦夫に父を殺されたエレクトラが弟オステレスと母殺しを企てるギリシャ悲劇とは逆方向に、竹原秋幸の兄・郁男は母・フサに復讐を遂げる前に自殺する.
『岬』の最初からその事件と郁男の残像が主人公・秋幸と「路地」に住む人たちに昏い影を落とし続ける.
『岬』では、母はまだときという名だし、郁男は兄と呼ばれるだけで、竹原秋幸の人格に大きな影響を与える実父・浜村龍造はほんの一瞬登場するだけで、男としか言及されない.
性と血と暴力を深いところで原動力としつつもそれによって苦しめられる人びとは、次第に、名を与えられ、遠くから近くへとやってくる.
中上の性をめぐる描写が際立っているように感じる.
例えば以下のような表現を含めて.

この時だった。大溝に、ソーセージを入れたコンドームが流れてきた。色めきたった。豚小屋の向こうのアパートか立て売りのあたりか、それとも町方の家のどこかに、昼も夜ももだえる若後家がいるのだ、と結論した。一言、声を掛けてくれればいいものを、と安雄は言った。

安雄は、その後、古市という男の足を3回突き刺して殺害してしまう.
その事件の後、秋幸の姉・美恵が精神に異常をきたす.

『岬』において与えられていた主題がある.
秋幸が母・フサの連れ子として、亡き先夫との子らである郁男、芳子、美恵のもとを離れて、竹原繁蔵の後添えとなって暮らしており、秋幸はそのどちらの父(亡き先夫と繁蔵)とも違う、浜村龍造という二の腕に刺青を入れた男の子どもであることが、『枯木灘』において、次第次第に膨らんでいく.
『枯木灘』の最後で、秋幸は、浜村龍造の次男、つまり自分の異母弟を殺してしまう.

『地の果て 至上の時』は、秋幸が大阪の刑務所に3年服役して、ふたたび紀州へと戻るシーンから幕が開き、秋幸は、木こりとして、町の暮らしから遠ざかって暮す六さんの小屋で一泊する.
このノマディックな六さんのことが私は好きだ、気になる.

実父・浜村龍造にとっての「路地」について考える秋幸のことば.

秋幸は考えた。路地の中でフサの私生児として生まれた秋幸とまるっきり違う目で浜村龍造は路地をみていたのだった。路地では文字の読み書きを知らない者らが住み、女らがつつしみを忘れて大手振り交接し平気でテテナシ子を生む。秋幸もテテナシ子として生れた。男らは気力なく幽霊のように行き、人が生き続けるのに必要な誇りや自信など皆無だった。だが秋幸は町の動きからはじき出された者らの分泌する人肌のぬくもりの中で育った。他所から流れて来た者には、危害を加える恐れがなく自分より無能なら、あたうる限り優しく親切だったが、知恵があり元気がある者に対しては排除し、閉め出し、あらん限り噂の種にした。

秋幸は、ケガを追った六さんをたまたま浜村龍造の家に運び入れた縁で、浜村龍造と近づくようになり、路地に育った、身内として、実父の手下して働くことになる.
龍造と「兄やん」秋幸は、伝説の人物・浜村孫一の血につらなり、路地の復興への野望によって結びつく.
やがて父と子の関係は随所で反転し、対立を孕むものへと肥大する.
その絶頂において、浜村龍造は、突然、自殺する.

そもそもフィクションとして書かれた物語は多様な解釈に開かれている.
あたりまえである.
そのことを踏まえれば、私は、竹原秋幸の物語を漂うことによって、内側から、書くことに対する動機のようなものを与えられた気がする.
とはいうものの、書けないし、誰もいきなり中上健次にはなれない.

中上は、文庫版『岬』の後記でこう書いている.

 「黄金比の朝」は一年半前に書いた。
 吹きこぼれるように、物を書きたい。いや、在りたい。ランボーの言う混乱の振幅を広げ、せめて私は、他者の中から、すくっと屹立する自分をさがす。だが、死んだ者、生きている者に、声は届くだろうか?読んで下さる方に、声は届くだろうか?


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