たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

レヴィ=ストロース以前へ

2008年07月02日 11時46分22秒 | 人間と動物

さきごろ山梨に行って、昨年の害獣被害はそれほどひどくはなかったが、しとめたサル一頭の買値が、2万円から2万5千円に引き上げられたという話を聞いた。現代の都市生活者としてのわたしは、日本の農村が抱えるそのような潜在的な問題を、そうした折に、ときどき耳にする程度である。そのことは、わたしが、いかに、動物でありながら、動物であることを忘れた人間の世界にどっぷりと暮らし、動物肉を日々食べているのだけれども、もはや動物に対しては、感情の揺さぶりをもされないで、生き暮らしているのかということを示しているように思える。その意味で、動物を愛玩すること、とりわけ、社会的な運動としてそれの愛護に執着することは、きわめて現代において屈折した、複雑な問題を秘めていると見ることもできよう。話を元に戻せば、そのようにして、動物たちは、この現代空間においては、わたしの脳から疎外されてしまっている。いったい、日本の農村地域の害獣被害の当事者の人たちは、どのように、日々動物たちと向き合っているのだろうか。そうした問題意識が、そもそも研究の出発点にある。

公開シンポジウム「セックスの人類学:動物行動学、霊長類学、文化人類学の成果」の、まだ冷めやらぬ興奮に包まれながら、わたしたちは、場所を移して、人間と動物の関係をめぐる比較民族誌研究の今後について、話し合った。動物と人間のセックスをつなぐ接点は、「獣姦」だったのではないかと、Sさんは呟いた。その研究集会で
わたしが確認できたことは、人間と動物の関係について、人類学の側から接近することは、レヴィ=ストロースおよびレヴィ=ストロース以前の人類学の問題関心へと遡ることだということである。自然や環境、生態ということばだけが独り歩きして、メガ・ポリティカルな運動へと地球市民を駆り立てるような今日の行き方を横目で見ながら、勝手にクールダウンして、人間が具体的な個々の場で、動物たちとの関係を打ち立てていたのかを、象徴やトーテム、コスモロジーなどをキーワードとして、つぶさに観察し、記述するたくらみ。そうした試みが、人類学をとおして、目指されるべきなのではないかと思った次第である。
http://www2.obirin.ac.jp/%7Eokuno/man-and-animal.html

(写真は、イノシシの睾丸。プナンはうまいという。たしかに美味である)


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