たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

残り10冊、読書修行。

2011年09月20日 11時22分58秒 | 文学作品

藤澤清造 『根津権現裏』 新潮文庫 ★★★★(11-38)

 

藤澤清造の歿後弟子を名乗る・西村賢太に導かれて、『根津権現裏』を読んだ。90年ぶりの復刊だそうだ。タイトルがいかしている。好きだ。かつて文京区に住んでいたころに、根津権現には何度か行ったことがある。大正年間の人びとが、くっきりと足跡を刻んでたように感じる。さて、根津権現近くに住む主人公は、雑誌記者をして糊口をしのぐ身であり、若いころに患った骨髄炎が彼の足を蝕んでいるが、つねに貧困にあえいでおり、手術するにまとまった金もなく、かといって盗みたかりをするには、良心が許さない。ある日、友人・石崎への無心の依頼に失敗して下宿に戻ると、同郷の友人・岡田の急死が知らされる。岡田は、ふさという娘との交際を始めたところだったが、他方で、彼の勤め先の上司とトラブルを抱えて、縊死したのである。全編にわたって、貧乏と病いという日々の辛苦のなかから吐き出される主人公の心情が綴られる。藤澤の私小説である。彼は、慢性の性病から精神異常を悪化させ、彷徨し、行方不明となり、芝公園の六角堂内で凍死体となって発見されたという。壮絶なる、一小説家の死。

堀江敏幸 『雪沼とその周辺』新潮文庫 ★★★(11-39)

おそらく、このタイプの小説が好きな人は、少なからずの数に上ると思う。雪沼という町とその周辺に、何らかの因縁があって暮らす人たちの暮らしを、堀江は、優しく、柔らかな眼差しでもって語り始める。そのときすでに、一人一人に、何らかの変化が迫っている。いったん、そのようになった、ならざるを得なかった過去と経緯が語られ、やがて、変化が語られる。しかし、人の上に変化が訪れたとしても、それは大ごとではない。いや、悲しみやどうしようもなくなるような感情を生起させるようなことが、実際には、起こっていたのかもしれない。しかし、そうした出来事は、静かに打ちすぎて、現実のなかに呑み込まれて、別のありふれた日常をすでに生み出している。雪沼でなくても、私たち(日本人)誰にでも起こりうるようなものとして、人の暮らしが語られる。堀江は、音に対する感覚とその喪失や、ボウリングやステレオなどの道具などの使い方がじつに巧みである。

車谷長吉 『赤目四十八瀧心中未遂』 文春文庫 ★★★★★★★(11-40)

今年に入ってから、まだ(というべきだろう)40冊目。年間50冊というのは苦行である。今年は、春に読んだ、石牟礼道子の『苦界浄土』を上回る作品など出会わないだろうと思っていた。しかし、『赤目四十八瀧心中未遂』は、激烈さの点で、それに匹敵する小説だ。

昭和の終わり、30歳代半ばの主人公は、東京での会社員生活を捨てて、自分自身を消滅させるために、食い詰め者として、阪神電車出屋敷駅(尼崎市)近くの、通称「アマ」と呼ばれる、掃寄場にたどり着く。彼は、木造アパートの二階の一室で、ひっそりと、病気で死んだ牛や豚などの肉を、一本一本串に刺して、僅かな銭をもらって生きながらえる。その日本の最底辺地の周辺には、最初の出会いのとき、戦後パンパンをしていたということを主人公に告白した伊賀屋の主人セイ子ねえさん、朝牛や豚の臓物を届けて夕方に串刺しになった肉を受け取って帰る無口なせいさん、階下に住む、美しい「朝鮮」のあやちゃん、あやちゃんの情夫の彫り物師・彫眉、彫眉の子である晋平ちゃん、やくざや辻姫(街角で春をひさぐ女)などが蠢いている。主人公は、アパートの一室で、モツを串に刺し続けながら、向かいの部屋から聞こえるうめき声の正体を知り、考え込む。

こちらの部屋で牛や豚の臓物をさばきながら、この賃仕事と、いま向かいの部屋から伝わって来る仕事の気配を、較べ考えた。私の手も臓物の血と脂で、ぬるぬるである。併し半開きの戸の陰から、たった一瞬だけではあったが垣間見た、あの行き詰るような凄まじさは、「うッ。」「ううッ。」という一針ごとに、こちらの心臓に喰い入って来ずには措かない。人の肌に、いや、人の生霊に、目を血走らせて針を刺す業苦の息遣いである。併し人はなぜこのような凄惨な苦痛に堪えてまで己がししむらに墨を入れるのか。そこまで心を狂わせて。己が生に刻みたいあの輝きは何なのか。

その安アパートでは、猥雑な交歓が交わされるが、それはときに、神々しい輝きを放つ。


するとその雨の中を、何か口に叫びながら、隣室へ駈け込んできた男女があった。しばらく何か言い合ってばたばたしていたが、やがて静かになった。おそらくはまぐわいが始まったのだろう。が、雨の音にかき消されて、いつものように声は聞こえなかった。するとそれが私の想像を刺戟し、こんな安アパートの中で交わる男女の姿が、いつになく鮮烈な美しさをまとって像を結んだ。外に雷がとどろき、稲妻が窓ガラスを慄わす中で媾合する男女の肢体が。

競馬、競輪、競艇 に深くのめり込んでゆくタクシー運転手たちの挿話がある。タクシーのその日の上りを博奕につぎ込んでしまって、運転手は、前借り借用書を書かざるを得なくなり、月末の給料はほんの僅かしかなく、不可避的に翌月も同じような生活をするほかないし、タクシー会社としても、いちいち解雇していては、従業員を確保できない。底辺へと落ちて行った主人公は、そこにも言いようのない輝きを見出す。

恐らくはその日その日、尻の穴から油が流れ出るような毎日ではあろう。併しこの人たちにとっては、この賭事がなくては窒息してしまうような、すれすれの生の失望と快楽を生きているのであり、と言うよりも、そういう「物の怪。」に取り憑かれた生活が平気で出来るというのは、すでに生きながらにして亡者になった人の姿であって、私は見事な虚体の生活だと思うた。

アヤちゃんは、突然、アパートの2階に上がってきて、主人公の前で素っ裸になる。

その勢いでアヤちゃんは私の手を振りほどくや、向き直り、一瞬、あの猛禽のような凄い目の光を放って、私を烈しく抱きしめた。気が狂うたように二人は接吻した。も早この牝と牡の霊の炎¥は、より烈しく、熱い舌が熱い舌をを求めあわないではいられなかった。アヤちゃんの心臓の慄えがそのまま私の心臓に伝わった。私の心臓の戦いもそのままアヤちゃんの心臓に伝わるに違いなかった・・・

 アヤちゃんの情夫・彫眉は、ただならぬ雰囲気を漲らせる。彫眉に感づかれたらこの世から消されるに違いない。アヤちゃんへの思いを抱いたまま暮し続ける主人公に、アヤちゃんからの置き手紙がなされる。彼女は、兄の借金の肩代わりにされて、身売りされることになる。死とエロスが交差する。アヤちゃんの「うちを連れて逃げてッ」という言葉に動かされて、二人は、赤目四十八瀧(三重県)へと行き、死に場所を探し求める。しかし、だらしなく赤目から戻る帰りの乗り換え駅で、アヤちゃんは、「うちは、こッから京都へ出て、博多へ行くからッ。」と、一人で苦界へと身を沈めたのである。

同じ書き物を生業とする者として、車谷にどのように太刀打ちすればいいのだろうか。いや、太刀打ちしようと思うことが、最初から間違っているのかもしれないが。とにかく、「車谷長吉恐るべし。」である。映画化されているという。取り寄せ中である。


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