たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

フィールドとのセックス~公開シンポジウム「セックスの人類学」を終えて

2008年07月01日 22時50分21秒 | 性の人類学

さる2008年6月28日(土)に、桜美林大学・国際学研究所主催、リベラルアーツ学群文化人類学専攻共催で行われた公開シンポジウム「セックスの人類学~動物行動学、霊長類学、文化人類学の成果」は、予想(せいぜい、70名くらいと予想した)を超える、のべ約100名の参加を得て、無事終了した。参加していただいた方々、有難うございました。準備は、この上なく大変であったが、国際学研究所研究員のFさんの配慮の行き届いた働きのおかげで、なんとか乗り切ることができた。わたし一人では、どこかで放り出していたはずである。Fさんには、この場を借りて、深謝申し上げたい。

さて、シンポジウムの内容については、参加者や他のパネリストの方々の評価を待たなければならないが、わたしの個人的な感想を述べるならば、そのような二項的な見方は必ずしも正しくはないのだろうが、動物行動学・霊長類学の研究に、文化人類学の研究は、圧倒されてしまったということである。
動物行動学・霊長類学は、敵ながらあっぱれであった。いや、敵ではない。それどころか、われわれ文化人類学が、研究手法や態度などを、深く学ばなければならないアニキ的学問領域なのである。そのことをわたしは強く感じたし、今後、もっと接近したいとも思った。イルカの擬似性交、オラン・ウータンのフランジとアンフランジのセックス、ニホンザルを性行動をめぐる考察。それらは、どれも、フィールド観察をベースに、発表が生き生きと組み立てられていた。スリリングであった。

このシンポジウムに照らして比ゆ的に述べれば、彼らは、フィールドとセックスしている(フィールドでセックスしているということではない!)。このフィールドとのセックスとでもいうべきものが、文化人類学には欠けているのではないか。それが、このシンポジウムをつうじての、わたしが強く感じた点である。
Iさんは、眠気が吹っ飛ぶようなセックスの人類学をと、わたしに呟いた。おそらく、求められるのは、それである。

セックスの人類学、とりわけ、文化人類学の性研究が扱う性行動は、解釈・考察・分析がいかにすぐれたものであれ、しょせん、下ネタである、エロ談義である。まずは、フィールドでの観察の視角を重層化させることで、なんとかして、性行動の描写力をこそ磨かなければならない。それが、わたしが、<性の営みをめぐる「グロテスク」なまでの記述>、<性行動の「息づかい」までをも含めたかたちで記述考察>ということばで、たくらんでみた問題提起であった。それは、今回のシンポジウムでは、たぶん、あまりうまく行かなかったのだろうと思う。この主張は、「フィールドとセックスする」ほど、いかれポンチになってみなければ、分からないことなのかもしれない・・・

もう一つの問題は、「人類」という、動物行動学・霊長類学と文化人類学の共通項を互いに結び合わせるような試みが不足がちだったという点である。発表を一列に並べてみて、どれが一番面白かったとか、動物行動学のほうが現代社会の文化人類学よりも迫力があったというようなことを決するためのシンポジウムではない。文理融合プロジェクトなのではない。それらを「つなぐ」ことによって、セックスという営みについて、「人類」内外の尺度でもって、理解を前進させるということが、目指されるべきであったのではないだろうか。いずれにしても、おぼろげながら、今後の課題が、このシンポジウムをつうじて、明らかになったのではないだろうか、といまわたしは思っている。

とりいそぎ、思いつくままに。

 (写真は、ミッシェル・シュリア著、西谷修他訳『G・バタイユ伝』1991年、河出書房新社、より抜粋。ジョルジュ・バタイユは、この写真を、1925年に友人から譲り受けたという。「百刻み(百回肉を切り刻まれる)」の刑に処せられる中国人の青年は、注射されたアヘンの効果で、頭髪を逆立てて、白目をむいて恍惚の表情を浮かべている。バタイユは、その苦痛とも悦楽ともつかぬ表情に注目した。セックスの苦痛は、どのように快楽へと転じるのか?・・・という、わたしの個人的な発表との関わりから)


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