たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

シャーマン/田口ランディ

2009年11月26日 09時52分50秒 | 文学作品

読書の秋と言われているがゆえに、わたしたちは、夜長に本を読むのかもしれない。昨夜、田口ランディの『コンセント』を読んだ。

兄の腐乱死体から発する死臭を嗅いで、主人公ユキは、死の臭いの敏感性を手がかりとして、世界のあちら側と交信できるようになってゆく。それは、臨床心理学と文化人類学(シャーマニズム研究)を二つの足場として、一つの巫病譚として読むことができる。

死にたずさわる葬祭業者と消毒業者の、人に対する優しさが、生にたずさわる臨床心理士の人に対する乱暴さとでもういうべきものと対照的なものとして描かれている。
それにしても、田口の描くこのセックスシーンの激しさ、生々しさ。頭にこびりついて離れようとしない。夢と現実ともつかない空間に、ふと兄の姿が現れる。そういった現実と非現実の連続性のどこかに、わたしたちは「何か」に出会う、シンクロすることがある。この小説には、そういったリアリティーがある。

文化人類学者・律子の登場は、この小説を、シャーマニズムの懐へと、世界のあちら側とのつながりへと引きずってゆく。人間行動には、少なからず理解不能な部分がある。癒しを請け負うお節介なサービス業である現代のカウンセラ-に対して、意識を高次元へと覚醒させるスピリチュアル・エマージェンシーである禊を経験して、シャーマンは力能を得る。

ひるがえって、わたしたちのシャーマニズムへの興味関心というのは、はたして、
いったいどのあたりに発するのだろうか。それは、どうしようもない現実に対する苦悩の果てに見出される狂気(うつ病や後天性トランスだけでなく、現代社会そのものの病的な現実を含む)に対して、別の手続きをつうじて、挑む仕組みに触れてみたいということに、多少なりとも関わっているのではないか。『コンセント』を読んで、わたしのシャーマニズムの関心は、そういったものであったということを確かめることができたように思う。

香を吸い込んでトランスし、世界のあちら側と交信するためにブランコに揺られて祈りを唱えるカリスのシャーマン(写真の左:故人)。折に触れて、彼女は、わたしに世界のあちら側について語ってくれた。苦悩と病気の果てに、シャーマンとして生まれ変わったその女性は、2年間のフィールドワークの最後に、わたしを養子にしようとしたが、果たせなかった。わたしは、この本を読んで、加えて
、カリスのシャーマニズムを思い出した。


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