たんなるエスノグラファーの日記
エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために
 



『中央公論』2011年2月号の特集は、「大学の耐えられない軽さ」。ミラン・クンデラの小説『存在の耐えられない軽さ』をもじった絶妙のネーミング。でも、エッセイは、日本の大学の抱える諸問題の告発といった趣だ。立花隆、吉見俊哉、利根川進などの論陣が、いいたい放題言っているが、どれもナルホドという感がある。それほどまでに、いま、日本の大学は問題だらけで、イケてないのだ。大学の軽さといったら「耐えられない」のではなく、「耐えがたい」レベルにまで進行している。

中央教育審議会の2008年の『学士課程教育の構築に向けて』という答申は、その評価は分かれるかもしれないが、少なくとも、その後の大学学士教育の立て直しのベースラインになってきたし、よく読むと、教育について真正面から取り組み、
配慮の行き届いた提言を含めている点で、けっして侮ることはできないものだと思う。

その20ページから22ページにかけて、「単位制度の実質化」に関する課題が述べられている。要点をまとめてみよう。日本の大学は、欧州型ではなく、アメリカ型の「単位制度」を採用している。1単位の学習時間は45時間と定められており、それは諸外国と比べて低くはない。しかし、大学生は学外の勉強をほとんどしておらず、平成18年の総務庁の調査では、平均3時間半である。こうした学習時間の実態は、単位制度が実質化していないことを示している。そこで改革の一つの方向としては、学習時間の45時間を確保するために、講義であれば15時間の確保が必要であり、ここには定期試験を含めてはならないとしている。

さらに、答申された学習時間の確保による単位制度の実質化を前へと進めるためには、「各大学では、学習時間などの実態を把握した上で、その結果を教育内容・方法の改善に生かすことが必要である。また、教育課程の体系化を含めた上で、きめ細かな履修指導と学習支援の実施も求められる」と、されている。つまり、答申は、大学独自の学習の実態を把握した上で、それを改善に生かすように求めているのである。さらに、経済的困難を抱える学生が増加し、学習に専念できない状況についても十分に認識しろという文言まである。その答申は、行き届いている。

わたしが勤務する大学でも、2011年度より各授業科目における授業実施回数に関して、「定期試験期間を除く15週授業」を行うことになったとの報告が、大学の当局からあったのは、約一か月前の先月の半ばのことである。中教審の2008年の答申のなかで、「講義であれば1単位当たり最低でも15時間の確保が必要とされる。これには定期試験の期間を含めてはならない」と示されているという。そのため、各学期の授業期間終了後に定期試験期間を一週間設定し、休講にともなう補講は、原則として土曜日および6限目などに実施することになった。学期15週制になった2年前と同じく、またもや、一方的なお達しだ。しかし、この通達は、上に書いたように、改めて答申を読み直してみるならば、ハッタリであることが分かる。

15週の外に定期試験期間を設けるということだけで、はたして学習効果が高まるのだろうか。教員の労働投下量の点でいえば、一週間増えるわけで、定期試験を必ず行うことは必要とはされない以上、15週内のレポート提出などの措置によって、成績評価を行うことはいくらでも可能だ。そうした対処が、
はたして、学習効果を高めるのにプラスに働くのだろうか。単位制度の実質化は達成されるのだろうか。そうした課題をめぐって、教育の現場におけるディスカッションは欠かせないはずだ。

要するに、たんに定期試験期間を15週の授業期間外に設ければ、それで済むというようなことなのではない。少なくとも、答申はそう述べている。学習時間の把握と学習支援などの、より踏み込んだ取り組みが求められているのである。ある大学の責任者は、国立大学も含めて、新年度から新学事歴で行く流れにあり、それには逆らえないので、理解と協力を願いたいと述べた。なんたることか!理性の府たる大学が、その対極にあるような、世の中の「流れ」を優先するとは。とにかく、今の大学は、そんなもの(=非理性)で動いているということだけは確かである。この軽さには、もはや、耐えがたいものがある。今後、この耐えがたさが、ますます悪化するのではないかと心配である。 

(性の人類学定期試験風景)
 



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